「沖縄復帰の父」と「祖国復帰の父」
戦中・戦後を通じて、日本は、沖縄の人々の多大な犠牲の下に敗戦と戦後の復興を経験したという歴史的経緯があります。いまなお沖縄には、基地問題という大きな政治問題が残っています。戦後のアメリカによる沖縄統治下で沖縄の日本復帰をいち早く唱え、「沖縄復帰の父」と称されるのが仲吉良光(なかよし・りょうこう・1887~1974)です。
仲吉は、早稲田大学を卒業し、『琉球新報』『沖縄朝日新聞』の記者を経て、1940年(昭和15)に首里(しゅり)市長となります。戦後、いち早く上京してGHQに沖縄の復帰嘆願を行い、「沖縄諸島日本復帰期成会」を結成して、代表委員として復帰への猛運動を開始します。その活動ぶりは凄まじく、ある時は署名集めに奔走し、ある時は国会に出かけ、ある時はアメリカの要人に陳情書を送りつけるなど、「沖縄の鳥の鳴かぬ日はあっても仲吉が復帰を叫ばぬ日はない」と言われたほどです。
沖縄が日本への復帰を果たすのは、仲吉が上京した26年後、1972年(昭和47)のことです。その翌年、仲吉は86歳で永眠しました。1974年(昭和49)、仲吉良光顕彰会により「日本復帰の父仲吉良光ここに眠る」との顕彰碑が那覇の仲吉門中(むんちゅう・門中とは沖縄に見られる父系の血縁集団のこと)墓内に建てられました。
「沖縄復帰の父」と共に「戦後の沖縄を創った人」と称されるのが、屋良朝苗(やら・ちょうびょう・1902~97)です。
沖縄師範学校、広島高等師範学校(現広島大学)を卒業後、沖縄県で教諭となり、終戦後は戦災校舎の復興や教職員会の組織など教育界で活躍するかたわら、仲吉による「沖縄諸島日本復帰期成会」に参加して大衆運動を指導します。
1968年(昭和43)、初の琉球政府行政主席公選に野党統一候補として出馬し、教職員会、労組など民主団体から圧倒的な支持を受けて当選します。アメリカ軍統治下の返還闘争が激化するなか、革新主席としてアメリカ民政府や佐藤栄作首相と折衝を重ね、不屈の精神で悲願の祖国復帰を実現させました。
1972年(昭和47)には、本土復帰に伴う第一回沖縄県知事選で革新統一候補として出馬、圧勝のうえ復帰後初の沖縄県知事に就任し、激動期の県政を担いました。
米軍基地問題をはじめ、自衛隊の沖縄配備、沖縄国際海洋博覧会の開催、失業者の増大など山積する問題に全力で取り組みますが、国家施策と地元住民の板挟みで苦境に立たされる場面では、苦渋に満ちた表情をすることが多くなり、「縦しわの屋良」と呼ばれました。退任時、主席初当選からの八年間を振り返り、「矛盾に満ちた問題ばかりで苦悩の連続。いばらの道、針の山を行く思いであった」と述懐しています。
屋良は、どんなに困難な問題であっても、「誠意をもって立ち向かえば、必ず予想以上の成果を生む」という信念を捨てませんでした。祖国復帰を達成し、「沖縄の歴史の開拓者」と評価されるばかりでなく、その清廉潔白な性格も多くの県民から慕われました。
1997年(平成9)、屋良の死に際し沖縄初の県民葬が営まれ、多くの沖縄県民が哀悼の意を表しました。各政党の党首たちも、「屋良さんがいなければ、沖縄復帰は実現しなかった」と、あらためて彼の功業に謝意を示しました。
屋良が「祖国復帰の父」と称されるゆえんですが、「基地のない平和で潤いのある豊かな沖縄の実現」という屋良の真の願いは、いまだ達成されていません。
(つづく)
「政界の父」一四人の墓所
板垣退助墓所(品川神社本堂裏・東京都品川区北品川)
片岡健吉墓所(中天場山南側・高知県高知市前里)
法貴発墓所(法昌寺・兵庫県篠山市黒岡)
河野広中墓所(紫雲寺・福島県田村郡三春町字大町)
*河野は没後、護国寺(東京都文京区)に葬られましたが、後紫雲寺に改葬、現在では紫雲寺に「磐州河野先生瘞髪(えいはつ)塚」のみが残っています。
謝花昇墓所(沖縄県島尻郡八重瀬町字後原)
米澤紋三郎墓所(養照寺・富山県下新川郡入善町入膳)
川越進墓所(青山霊園・東京都港区南青山)
今村勤三墓所(今村家墓所・奈良県生駒郡安堵町窪田)
中野武営墓所(蓮華寺・香川県高松市浜ノ町)
尾崎行雄墓所(円覚寺黄梅院・神奈川県鎌倉市山ノ内)
吉田茂墓所(青山霊園・東京都港区南青山)
片山哲墓所(大庭台霊園・神奈川県藤沢市大庭)
仲吉良光墓所(仲吉家墓所・沖縄県那覇市古島)
屋良朝苗墓所(識名霊園・沖縄県那覇市識名)
※板垣退助、河野広中、尾崎行雄写真、およびタイトル写真出所:国立国会図書館ホームページ