「日本のケインズ」と「近代経済学の父」
1913年(大正2)に第一次山本権兵衛内閣の大蔵大臣となって以来、大正から昭和にかけて、原敬【はらたかし】、高橋是清(兼務)、田中義一、犬養毅、斎藤実(まこと)、岡田啓介の各内閣でそれぞれ大蔵大臣を務め、日露戦争や昭和の大恐慌などの国家存亡の危機に、財政面で救ったのが高橋是清(これきよ・1854~1936)です。
のんきで善良そうなダルマに似た風貌から、「ダルマ宰相」と呼ばれ庶民からも親しまれた高橋ですが、政界に入るまでの経歴がまさに「七転び八起き」そのものでした。

アメリカで奴隷になり、芸妓のヒモになり、相場詐欺に引っかかり、ペルーで銀山開発の詐欺に遭う――これらのことはすべて高橋の前半生に実際に起きた出来事でした。後年、自伝には、「自分は幸福者だ、運のいい者だ。……窮地に陥っても自分にはいつかよい運が転換してくる」と書いており、楽観主義者ぶりがうかがえます。
高橋はペルーの銀山開発が失敗し帰国した後、川田小一郎(こいちろう)日銀総裁に認められて日本銀行に入り頭角を現し、日露戦争の戦費を調達するため、政府からイギリスに派遣されて外債募集に成功し、日銀総裁まで登りつめます。政界入りしてからは、1927年(昭和2)の金融恐慌では銀行取付けの最中に金融界の救世主として蔵相に就任、モラトリアムを施行して恐慌を沈静させます。この時、「ダルマさんが出てきたから大丈夫だ」と庶民のあいだでささやかれたといいます。
1930年(昭和5)から翌年にかけての昭和恐慌では、大不況に陥り金の流出が続くなか、望まれて蔵相となり、金輸出再禁止を断行。続いて大量の国債を発行して、財政資金を呼び水にして景気にてこ入れし、国債の市場操作を通じる景気調節政策を導入して、恐慌からの脱出に成功、「日本のケインズ」とも称されました。晩年は、軍事費抑制方針を示したことから軍部と対立し、二・二六事件で暗殺されます。
財政家としては「日本のケインズ」と最大級の評価で称されていますが、実は高橋には、組織や職名は異なりますが、現在の特許庁長官に当たる農商務省専売特許局および特許局の初代局長であったという一面があります。現在の特許庁でも「初代特許庁長官」として高橋を紹介しています。
高橋は、1874年(明治7)頃、文部省に教育制度確立のため雇われていたモーレー博士の通訳をしていた時、博士から「日本には著作を保護する版権はあるが、発明・商標を保護する規定がない。……日本でも発明・商標は版権と共に保護する必要がある」と聞いて工業所有権の重要性を痛感し、以後研究を進め、1885年(明治18)施行の「専売特許条例」をはじめ、日本の特許法の起源とされる1888年(明治21)成立の「特許条例」など、商標制度や特許制度の制定に尽力しました。高橋が、近代日本の「特許制度の父」とも称されるゆえんです。
日本の金融政策を担った高橋が「日本のケインズ」と称される一方、日本の近代経済学分野において基礎をつくり、「日本の近代経済学の父」と称された東西両雄がいます。東の福田徳三(1874~1930)、西の高田保馬(やすま・1883~1972)です。
福田は、高等商業学校(現一橋大学)研究科を卒業後、ミュンヘン大学で博士号を取得、母校の東京商科大学(現一橋大学)教授として、日本にいち早くドイツ歴史学派の経済学を普及させ、近代経済学の基礎をつくった経済学者であることから「日本の近代経済学の父」と呼ばれています。大正デモクラシー期には吉野作造らと黎明会を結成し、民本主義の啓蒙に努めました。第一次世界大戦後はマルクス主義に対する批判的立場で、政府による社会・労働問題の解決を提唱したことから、日本における福祉国家論の先駆者とも評されています。研究の集大成『厚生経済研究』は、経済学研究者のバイブルとなっています。
他方の高田は、佐賀県小城郡三日月村(現小城市三日月町)に生まれ、第五高等学校(現熊本大学)の医科に入学しますが、社会科学のほうが自分に向いていると、同校の文科に再入学します。その後、京都帝国大学(現京都大学)で社会学を専攻し、貧富の差をなくす社会をつくるため社会学の研究に没頭して大著『社会学原理』を著し、階級や分業現象への関心から勢力説を提唱します。また、経済学のなかに社会学的要素を取り込んだ「勢力経済学」を提唱し、経済理論のほぼ全領域をカバーしたわが国最大の体系書と言われた『経済学新講』を著すなど、一般均衡理論、独占理論など近代経済学のわが国への導入に大きな役割を果たしました。
社会学と経済学の両面で壮大な体系を展開し、多くの優秀な学者を育て、さらに、優れた歌人としても知られ、まさに当代随一の「巨人」と仰がれた高田は、「日本の近代経済学の父」であると同時に、「日本社会学の父」とも称されました。