後藤新平:七つの称号

「自由民権運動の父」板垣退助が、「板垣死すとも自由は死せず」との名言を残したのは、1882年(明治15)演説に訪れた岐阜で暴漢に襲われた時ですが、この時板垣の手当てをしたのが、愛知県医学校(現名古屋大学医学部)で病院長兼医学校長をしていた弱冠25歳の後藤新平(1857~1929)でした。

 ショッキングな事件に慌てふためく者が多いなか、後藤は冷静かつ適切な治療を行い、「ご負傷なさって、ご本望でしょう」と板垣に声をかけました。板垣は、後藤を頼もしく思い、「医師にしておくのは惜しい。政治家になれば、かなりのものになる」とつぶやいたといいます。

 板垣の予言どおり、後藤は、明治から昭和にかけての近代日本の激動期に100年先の未来と世界全体を見渡す視野を持って、内政から外交まで幅広い業績を残します。後年、後藤に与えられた「父」なる称号の数々が、それらを物語っています。

 医師として出発した後藤ですが、その後内務省に入り、ドイツ留学を経て内務省衛生局長に就任したものの「相馬事件」に連座し職を辞します。ところが日清戦争後、帰還兵の大量検疫での行政手腕が上司の児玉源太郎の目にとまり、児玉の台湾総督就任に伴い、台湾民政局長(後の民政長官)に大抜擢されるのです。植民地台湾の近代化に尽くし、現在に至る台湾発展の基礎を築いたことから、「台湾近代化の父」と称されています。

後藤新平(1857~1929)

 台湾での後藤の功績を認めた児玉は、満州の近代化を後藤にゆだねます。当時の満州は日本の植民地ではなかったのですが、日露戦争の勝利によって権益を獲得した南満州鉄道(満鉄)設立時の予算は約二億円と、当時の国家予算の四割にも達する膨大な額でした。満鉄と附属地の経営を任された後藤は、直後に児玉が急死したことから、その遺志を継ぐ決意で満鉄初代総裁に就任します。

 児玉の「満州経営唯一の要訣は、陽に鉄道経営の仮面を装い、陰に百般の施設を実行するにあり」という信念を引き継ぎ、広軌鉄道・雄大な都市計画・学術文化施設などの「文装的武備」と呼ばれる経営を展開し、満州の社会基盤を整備します。このことから、後藤は、「満州開発の父」と称されました。

 その後、第二次・三次桂太郎(かつらたろう)内閣の逓信大臣兼鉄道院総裁として、速達・内容証明郵便の開始、国鉄の電化・広軌化を進め、寺内正毅(まさたけ)内閣では内務大臣、外務大臣、第七代東京市長を務めるなど、まさに板垣の予言どおり大政治家としての道を歩みました。

 1923年(大正12)9月1日、関東大震災で東京が焦土と化すなか、後藤は、第二次山本権兵衛(ごんべえ)内閣の内務大臣兼帝都復興院総裁として、震災復興計画を立案します。大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴い、30億円という破格の予算(国家予算の約一年分)のため猛反対に遭い、計画は縮小を余儀なくされますが、幅44メートルの昭和通りをはじめとする道路網、隅田川の鉄橋、大小百にも及ぶ公園・公共施設など、都心周辺部に近代都市基盤が整備され、市街地が拡大して現在の東京の都市骨格をつくったといわれています。計画の規模の大きさから「大風呂敷」と揶揄されますが、既成市街地における都市改造事業として世界最大規模であり、世界の都市計画史に残る快挙とも評価されるこの復興事業を立案した後藤は、「帝都復興の父」「都市開発の父」と称されました。

 晩年の後藤は、少年団(ボーイスカウト)日本連盟初代総裁、拓殖大学総長、東京放送局(現日本放送協会)初代総裁などを歴任しました。特に少年団の活動には熱心で、会合には制服着用で出席し、「人のお世話にならぬよう。人のお世話をするように。そして、報いを求めぬよう」という標語をつくりました。日本の少年団を世界的組織の一つに育て上げたことから、「ボーイスカウトの父」と称され、また、東京放送局の放送開始日にマイクの前で挨拶を行い、日本でラジオ電波に乗った最初の声を発したことから、「放送の父」とも称されています。

 後藤は1929年(昭和4)71年の生涯を閉じますが、1941年(昭和16)には後藤の一三回忌に当たって、故郷水沢に日本最初の公民館(現後藤伯記念公民館)が建設されました。後藤の生涯の根底にあった「自治」と「公共」が形になったことから、後藤は、死後、「公民館の父」と称されました。