この様に考えてみると、なぜ日本で高度経済成長期において様々な分野でイノベーションが加速した理由も透けて見えてくる。この時期、太平洋戦争時において様々な領域で研究開発を行っていたエンジニアが、GHQ(連合軍最高司令官総司令部)の指導によってそれまでの活動を継続できなくなり、異なる分野、それも多くは民生分野に身を転じている。この研究領域のシフトが、多くの民生分野で様々な「組み合わせ」を促し、それがイノベーションを生み出す要因となったのではないか、というのが私の仮説である。

 例えば、欧米の自動車技術から一歩も二歩も遅れをとっていた日本自動車界において、「東洋にスバルスターあり」と欧米自動車技術の耳目を集めるきっかけとなった傑作小型車が富士重工の「スバル360」だ。この車を生み出した百瀬晋六氏はじめとする同社の開発チームには、多くの航空機技術者が参加していたし、またマツダ(当時の社名は東洋工業)において当時「不可能」とまで言われたヴァンケルロータリーエンジンの開発を主導したのも、戦時中は戦闘機設計に従事していた山本健一氏を中心とした平均年齢25歳の混成チームだった。また、東海道新幹線において車台振動の問題を解決したエンジニアも、航空機のフラッター問題(航空機の翼が高速時に振動を起こして破壊される問題)の専門家である。

 翻って、近年の日本企業の状況はどうなっているだろうか?大多数の人材が新卒で入った会社で勤め上げるのはもちろんのこと、昨今ではカンパニー制浸透の弊害からか、あるいはスペシャリスト育成幻想からか、事業領域をまたがった上での経験がなかなか得られない状況にある。これではかつて日本で起こった様な多分野における知の融合と化学反応は到底期待できないだろう。

3.上下間の風通しの良さ

 1990年代において大韓航空の飛行機が相次いで墜落した際、事故検証を行った委員会は、その原因を「コクピット内の風通しの悪さ」にある、と断定した。この場合、「風通しが悪い」というのはつまり、機長と副操縦士がフランクに話しできる雰囲気がないということだ。そのため、副操縦士が「この命令はおかしいんじゃないか?」と考えたとしても反論や確認が出来ないため、結果的に誤った判断や命令がそのまま実行されてしまい、墜落につながっているということだ。