問題は、その後に就いた仕事がコンサルタントだったこと。クライアントにこうすべきとアドバイスするだけで、やりたいと言える立場にないのです。そんな生業ですから、ウオンツから10年以上遠ざかっていました。
ですから、起業してしばらくの間、私の経営はすべて「べき論」でした。驚いたのは、サービスのロゴなど周りのメンバーに「南場さんはどれが好きですか」と聞かれたことです。「好き嫌いではなく、売れるか売れないかで考えるべきでしょ」、当時はそう反問したものです。
思考には価値思考と欲求思考の2種類がありますが、私は価値思考で考える癖ができあがっていたのです。これはハンディだったと思います。
「ヒト」にとらわれない
「コト」に集中する
南場さんの言うアントレプレナーシップは、一般的なマネジャーの要件とは異なるということでしょうか。
必ずしもそうではありません。組織で何か新しい「コト」を起こす際、一人でできることはまずありません。コトを成すには、集まる理由もモチベーションの源泉も異なる人々を、一つの目標や夢に向かうチームにしなければならない。そのうえ、10の能力に見えた人からも100の能力を引き出さなければなりません。ですから、マネジメントに必要な資質とアントレプレナーシップは別物だと思わないのです。
つまるところ、必要なのは、仲間を集め、彼らと目標を共有しつつチームを引っ張る力です。社会にインパクトを与えることは、けっして一人ではできません。人を惹きつけ、動かす力が求められます。
人格者でなければ人はついてこないという意見があります。一方で、スティーブ・ジョブズやウォルト・ディズニーは、たとえ周囲から嫌われても、優れた起業家でありリーダーでした。

彼らは本当に嫌われているのでしょうか。そもそも、人はだれからも好かれる人格者と一緒にいたいと考えるのでしょうか。嫌われるよりは好かれたほうがいいでしょうが、この人といるとおもしろいことが起こりそうだ、この人は尊敬できるという視点のほうが重要です。
そもそも人はだれでも自分の人生を最も大切にします。これをやると自分のステージが輝く、成長して豊かになるからがんばるわけです。新撰組の時代ならともかく、だれかのためにというのは、他人に期待しすぎという意味で脆弱です。私自身も「ついていきます」と言われるのは大嫌いで、弱みも汚い部分もある人間のよい部分だけを見て気持ちが高まるのは本物ではない、と思うのです。
自分の人生を彩り豊かにしたい。自分の人生で成し遂げたいことがある。自分自身のために行動する人間の力を合わせることで、チームは脆弱性から解放されます。アントレプレナーシップは、そういうステージを用意できるか、自分のウオンツがメンバーのアジェンダになるほど強く訴えられるかということにかかっています。
また、組織が「コト」ではなく「ヒト」に向かう事態を避ける必要があります。人に関心が向かい始めると政治的になり、その瞬間、組織にアントレプレナーシップはなくなってしまう。私がDeNAを誇りに思うのは、コトに向かう姿勢が徹底しているからです。だれが言ったかではなく、何が正しいかに集中するからです。
がんばっているから応援しようという考えも否定すべきですか。
もちろん、自然な感情はあってもよいですが、あくまで付随するものではないでしょうか。第一リアクションがコトに向かうのか、ヒトに向かうのかでは、大きな違いがあります。
ユーザー数を100万人から1000万人に増やすにはどうするか。世界市場でトップになるには何が必要か。このようにコトに向かって集中し、エキサイトできる組織であるかどうかが重要です。組織内であっても、ダイバーシティを進めた結果、社内のコミュニケーションが滞っている、だれがどの分野に強いのかわかりにくい、といった問題を解決しようとしているのであれば、それはヒトではなくコトに向かっているといえます。
しかし、「○○部の存在意義のために」という旗が振られるのは、一見チームのために見えて、完全に人に向かっています。だれかを応援したい、推したいという気持ちはあるでしょうが、それが先に出てくるのが問題なわけです。言い出したのはアイツだからこの件はうまくいかないだろうという考えは、せっかく燃え始めたアントレプレナーシップの火を消してしまうことになります。