ではまず、この「習慣」というのはどうだろうか。顔を洗ったり歯を磨いたりするのも「習慣」であり、習慣というのは挨拶固有のポイントを言い当てたものではないことがわかる。本質観取をするときには、そうやって挨拶ならではのポイントをあぶり出していく。また、「頭を使わないで簡単に言える言葉」という意見も出た。「対人関係において挨拶と似ているのに社交辞令があるが、それとの違いは頭をつかわなくていい点」だというのだ。確かに挨拶はとてもコストパフォーマンスがよい行為といえる。

 「御礼と挨拶の違いは何なのか?」という質問も出た。御礼というのは、基本的には何かしてくれた“行為”に対しての「御礼」である。それに対して「挨拶」は、「存在を認める行為」という案が出たように、相手の“存在”を認識している、ということを伝える手段というところがある。また「自分の好意をあらわす行動」という意見もあったように、“肯定的に”認識しているというニュアンスもある。こうした場合、極端な例を考えてみることも有効だ。すると、気にくわない人に対して、にらみつけるとか、無視するということはあったとしても、通常そういう行動を挨拶とは言わないことがわかる。

 「一番簡単なコミュニケーション手段」という意見もあったように、「相手を認めるもっとも簡単なコミュニケーションの手段」ということはできそうである。「合図」という意見があったが、「合図」というと何か示し合わせてするというニュアンスもある。かといって「メッセージ」というと何らかの積極的な意味を伝えるというニュアンスになるため、「サイン」ぐらいが妥当だろう。

 こうした議論を通して、挨拶の本質を探っていき、「相手の存在を肯定的に認めているというサイン」という表現に辿り着いた。「相手とのコンタクトの第1歩目」ともあったように、その後のコミュニケーションの発端となる行為でもある。挨拶をしないということは、相手の存在を暗に否定することにもなるし、コミュニケーションもはじまらないため、人間関係において大きなマイナス要因になる。他人に言われたからといって「はいはい、挨拶すればいいんでしょ」といわんばかりに、目もあわせずに嫌々ながらしても、それは挨拶の本質からすれば、挨拶したことにはならないのである。

 このように挨拶の本質をとらえると、そのポイントを意識しつつ、状況や相手の関心にあわせて適切な挨拶ができるようになる。また、なぜ挨拶しなければならないかが深く納得できるようになるため、表層的なマニュアル主義の弊害に陥らなくて済む。とにかく大きな声で挨拶せよと強制されるよりも、挨拶の意味や役割を納得できたほうが、心から挨拶できるようになるだろう。以上が1時間半かけて議論した「本質観取ゲーム」の実践例である。

 本質かどうかは、⑴「その言葉をその言葉足らしめているような重要なポイント」を押さえられているか、そして⑵そのポイントが明晰になったことで、行動が本質的なものになりうるかという有用性の観点から評価されることになる。本質とは、真理や科学的な事実といったものではなく、あくまでも、それぞれの感度に応じた「言い当ての納得感」と「行動改善可能性」により評価されるものなのである。