一部の人はこう考えるかもしれない。人が社会的圧力によって要求に応じるのなら、誰かを説得して同意させることにあまり価値はないのではないか。社会的圧力に屈した人や、罪悪感や羞恥心に駆られて従った人は、結局は依頼者に憤りを感じるのではないか。

 だが、一般的にそのようなことはない。どんな行動に対してもそうであるが、依頼に従うときも、みずからの行動を正当化する理由を無意識のうちにつくり出す。そして基本的に、「自分がこの人の依頼に応じるのは、自分が好意を抱いているからだろう」というように暗黙の思考プロセスが働く。そのため依頼に応じる人は、依頼者に憤りではなく、むしろ好意を持つようになるのだ。

 研究によれば、他者との衝突を鎮めるには、手を差し伸べるよりも助けを求めることが時に最善の方策となる。依頼の受け手は応じてくれる可能性が高く、正当化のプロセスがこれに続き、ポジティブな感情が生まれ、関係性の修復が始まるというわけだ。

 あなたの希望を口に出してみよう。無理だと思う方は、社長に安全眼鏡の装着を求めた作業者のエピソードの結末を思い起こしてほしい。社長は彼女を再訪し、その気概に非常に感服したと伝えたのだ。

 だが前述したように、人は相手の視点で考えることが苦手なために、すれ違いが生じる。依頼がポジティブな反応を誘発するものだとわかっていない。

 それは無意識下のプロセスが一般にさほど理解されていないからだが、もう1つ理由がある。何かを頼むときに、自分自身の感情(気まずさ、弱さ、恥ずかしさ等)を過剰に意識しがちであり、他者が自分をどう認識するかについてはそれほど理性的に頭を働かせないためである。相手を説得することは、敵意を誘発するものだと思い込んでいるのだ。

 こうした傾向が、可能性に蓋をすることにつながっている。他者に影響を及ぼしたり、変化をもたらしたり、間違った行為に警鐘を鳴らしたりする機会を逸しているのだ。自分に与えられた公式の役割を超える危険をあえて冒そうとせず、他者の協力から得られるはずの恩恵を逃している。

 自覚していなかった影響力を、実際に利用できればどうなるか。物事をもっとたやすく頼めるようになり、拒絶されるのではないかと気に病むことも減る。つまりもっと力を発揮できるのだ。あるいは少なくとも、みずからの潜在的な力を認識するようになる。

 ニューヨーク市のある大規模文化施設にパートタイムで勤める、エリザベスの例を見てみよう。大々的な組織再編を経て、上司と部門長が去ってしまった。エリザベスはその役割を担えるだけの専門性を身につけていたが、生後8ヵ月の娘がいるため、フルタイム勤務を望んでいない。

 だが目下の組織の状況を見て、彼女は不安を募らせた。経営陣は新しい運営者を据える代わりに、部門全体、そして彼女が心の底から大事にしているプログラムを、そっけなく切り捨ててしまうのではないか。

 何をなすべきか彼女には考えがあったが、上層部が検討してくれるかどうか自信がなかった。ためらいながらも提案事項をまとめた彼女は、職務記述書を作成する。部門の中核プログラムを維持するために果たすつもりである、複数の責務を列記し、さらに「勤務時間は週30時間を超えず、完全にフレックスであること」を求める条項を盛り込んだのだ。

 当時の組織の状況は極めて不安定であったため、このように型破りな提案を上層部に持ちかけるのは怖かった。「自分がまったく無力であるように感じました」と彼女は言う。

 だが驚いたことに、経営陣は条件のすべてに同意したのだ。「結果的に、考えうる最高の仕事を得られました。自分のニーズを満たしてスキルも活かすために、提案を工夫したのです。そして娘を毎日午後、公園に連れて行けるようになりました。無力でもリスクをとって要求してみる価値は、十分にありました」

 私が友人や同僚に聞き取り調査を行ったところ、同様の話が出てきた。役職の変更、昇給、予算の増額、あるいは単にスマートフォンの支給。どの話も、期待していなかった「イエス」という反応を引き出せたことへの驚きをもって語られた。

 一連の研究結果をふまえ、私自身の行動にも変化が生じている。拒絶されるのを恐れて諦めていた物事に、もっと意識を向けるようになった。相手はこちらに手を差し伸べる意欲を持っているのに、それをこちらが汲まずに、みずからの願望を抑えつけてしまっているのだ。

 私はまた、依頼という行為が秘める力とともに、責任という側面も考慮しなくてはならないと気づいた。人の言葉には驚くほどの影響力がある。不用意なコメントが予期せぬ結果を招く可能性に、注意を払わねばならない。

 たとえば、最近誰かが欠勤したことに対しネガティブな発言をしたばかりに、それを横で聞いていた別の人が大事なプライベートの予定をキャンセルしてしまうかもしれない。また、間違った行いや、改善の余地のあることを目にした場合にも、(それを指摘するという)暗黙の責任が生じる。好むと好まざるとにかかわらず、誰もが「シンプルかつ率直な言葉」という、物事を変える強力な道具を持っているのだ。