『Harvard Business Review』を支える豪華執筆陣の中で、特に注目すべき著者を毎月1人ずつ、首都大学東京名誉教授である森本博行氏と編集部が厳選して、ご紹介します。彼らはいかにして現在の思考にたどり着いたのか。それを体系的に学ぶ機会としてご活用ください。2019年5月の注目著者は、ハーバード・ビジネス・スクール教授のスニル・グプタ氏です。

インドの名門大学から民間企業を経て
マーケティング研究者の道を歩み出す

 スニル・グプタ(Sunil Gupta)は1958年生まれ、現在60歳。ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)のエドワード W. カーター記念教授であり、同校マーケティング・ユニットに所属する。2008 年から2013年には、同ユニットの主任教授を務めている。

 グプタはHBSのGMP(General Management Program)の主査であり、デジタル時代の事業戦略の転換(Driving Digital Strategy)講座の共同主査も務める。MBAおよびAMP(Advanced Management Program)ではデジタルマーケティング戦略を教えている。

 グプタはインド工科大学(IIT)デリー校で機械工学を専攻し、インド経営大学院アーメダバード校(IIMA)のMBAを修了したのち、民間企業のHMMに2年間勤務した。詳細は後述するが、それから一念発起して会社を辞め、コロンビア・ビジネス・スクールの博士課程に留学してマーケティングを専攻した。

 同スクールから1986年にPh.D.を授与されると、同年、UCLAのアンダーソン・スクール・オブ・マネジメントのアシスタント・プロフェッサーに採用された。同校に4年在籍し、1990年にはコロンビア・ビジネス・スクールの准教授となり、その後、正教授としてメイヤー・フィールドバーグ記念教授に就任した。2006年にHBSへと正式に移籍したが、2003年には、HBSのヘンリー・キャロル・フォード財団記念客員教授として同校の教壇に立つ機会を得ている。

 なお、フィリップ・コトラーをはじめとする多くのマーケティング教育研究者がそうであったように、マーケティング分野の研究者にとって、『ジャーナル・オブ・マーケティング』誌や『ジャーナル・オブ・マーケティング・リサーチ』(以下JMR)誌に寄稿できることが名誉である。グプタにとってもそれは同様であり、『Harvard Business Review(ハーバード・ビジネス・レビュー)』(以下HBR)誌に寄稿した論文は限られている。

ベンチャー企業の企業価値を評価するために
「顧客生涯価値」の可視化を目指す

 昨今、企業価値が、貸借対照表上には表れない顧客やブランドなどの無形資産に依存していることが、ますます明らかになっている。グプタによるマーケティングの研究は、企業価値にとって重要な顧客の生涯価値(Customer Lifetime Value: CLV)を評価し、それを可視化することで、企業価値評価との関係を明らかにすることから始まった。グプタは特に、1990年代に誕生したドットコム・ベンチャー企業の企業評価について問題意識を持っていた。

 1994年以降、インターネットが開放され、アマゾン・ドットコムやイーベイなどの多くのドットコム・ベンチャー企業が創業し、それらの企業の株価は急激な上昇を見せた。しかし、ほとんどのベンチャー企業は、実際には利益を上げていない赤字経営であった。当然、割引キャッシュフロー(DCF)や株価利益倍率などの利益をベースとした従来の評価方法では、こうした企業の企業価値を評価することは困難であった。

 グプタの企業価値の基本的な考え方は、たとえば、アマゾンの現在の顧客が3000万人存在するとして、顧客一人の生涯価値が100ドルと推定できれば、顧客ベースの企業価値は30億ドルと推定し、さらに同社の将来の顧客数の成長予測することで、将来の企業価値を評価できるというものであった。

 グプタは、顧客の生涯価値の研究として、“Valuing Customers,” with Donald R. Lehmann and Jennifer A. Stuart, JMR, February 2004.をJMR誌に寄稿した。この論文は、同誌の最優秀論文に与えられる “William F. O’Dell award” を受賞している。

 また著書としては、Managing Customers as Investments, with Donald R. Lehmann, 2005.(邦訳『顧客投資マネジメント』英治出版、2005年)を上梓した。同書では、企業経営者や投資家が、顧客の生涯価値と、上場企業における経営の判断基準としている株式時価総額との関係に着目し、マーケティングへの投資、さらには顧客価値への投資に関する意思決定の意義について詳細な解説を行っている。同書は、アメリカ・マーケティング協会で年間最高のマーケティング関連出版物に与えられる、“2006 winner of annual Berry-AMA book prize for the best book in marketing.” を受賞した。

FREE時代における
マーケティングの本質とは何か

『WIRED』(ワイアード)誌の元編集長であるクリス・アンダーソンが、FREE, 2009.(邦訳『フリー』NHK出版、2009年)を出版し、フリー経済の歴史的な発展を俯瞰しながら、デジタル時代における新たなビジネスモデルを提言したことで、無料を重要視した顧客の獲得に関心が向けられるようになった。

 健康食品やサプリメントの販売のように、初期購入者には少額で商品を販売し、彼らを定期購買者に転換させることで初期費用を回収するビジネスモデルは、従来から存在した。デジタル時代の特徴は、商品となる情報コンテンツの複製が容易であり、一単位を追加生産する限界費用が著しく低減されたことで、無料での配布が可能になったことにある。

 こうした新たな市場経済の状況をいち早くとらえたのが、カール・シャピロとハル R. バリアンによる名著、Information Rules, 1998. (邦訳『ネットワーク経済の法則』IDGコミュニケーションズ、1999年)である[注1]

 両者はまた、HBR誌に“Versioning: The Smart Way to Sell Information,” Shapiro, Carl and Hal R. Varian, HBR, November-December 1998.(邦訳「顧客価値をとらえるバージョニング戦略」DHBR1999年5月号)を寄稿している。その中では、アプリケーション・ソフトウエアなどの情報コンテンツを無償で提供する「無償バージョンの論理」について述べ、顧客によって、あるいは異なる時間軸上にバージョンを変えて顧客に提供する「バージョニング戦略」を提言している。

 無償バージョンの論理は、第1に、初期の固定費負担が大きいものの、情報財である商品を複製する限界費用が小さく、無償バージョンを大量に配布しても、その費用がゼロに近いこと、第2に、情報財は、実際に利用してみなければその価値を認識できない「エクスペリエンス・グッズ」としての性格に由来すること、から成る。

 そして、商品を無償提供する効果としては、無償であることが話題となり商品に対する認知を確立できること、アップグレードなど付加的な機能を備えた商品を売り込むことができること、クリティカル・マス(臨界点)に到達を可能にするネットワーク効果を持つこと、などを挙げている。

 グプタは、“What is a Free Customer Worth?” with Carl F. Mela, HBR, November 2008.(邦訳「FREE時代の顧客価値創造」DHBR2010年7月号)を寄稿している。同論文では、顧客価値評価モデルによって、初期の無料顧客を活用して有料顧客を誘引するツーサイド・マーケットの重要性を指摘した。

 ツーサイド・マーケットとは、商品の導入段階の無料顧客には事業創造の役割が、離陸段階の有料顧客には価値創造の役割があることから定義される。そして、初期に少額ないし無料で製品・サービスを提供して顧客数を増やし、顧客数がクリティカル・マスを超えると、定価を支払う有料顧客数が逓増して初期費用を回収するばかりでなく、驚異的に収益を上げる手法になることを論じた。

 グプタらによると、顧客価値には、顧客が企業の製品やサービスを通じて認識する価値と、企業にとっての顧客の価値という二面性があり、4種類に分類できるという(図1参照)。

図1:2つの側面から見た顧客価値 

 デジタル時代においては、企業が提供する製品・サービスの価値を高く認識して利用する無料顧客が、SNSを通じてそれを発信することで「ネットワーク効果」が発揮される。それは企業に収益をもたらす「優良顧客」となる有料顧客を呼び込むばかりでなく、不安定で流動的な消費行動を取る「一般顧客」に企業が提供する製品やサービスの価値を認識させて、一般顧客を優良顧客に転換させることも可能になる。

 同論文では、出品者から出品料と販売手数料を得るインターネット・オークション・ビジネスにおける、出品者と購入者の関係を事例としている。初期段階では販売手数料を少額に設定し、それをインセンティブに出品者を増やして出品物を豊富にすることで購入者の参加を増やす、「ペネトレーション・プライシング」の有効性についても検証している。

デジタル・モバイル時代の到来に
企業はどう対応すべきか

 従来のマーケティングでは、不特定多数の消費者をセグメンテーション(Segmentation)して、目標をターゲティング(Targeting)し、それをもとに自社の製品・サービスのポジショニング(Positioning)を行うSTPがフレームワークとして用いられていた(図2参照)。

図2:従来のマーケティング・フレームワーク

 ただし、たとえば、“Marketing Malpractice: The Cause and the Cure,” Christensen, Clayton M., Scott Cook and Taddy Hall, HBR, December 2005.(邦訳「セグメンテーションという悪弊」DHBR2006年6月号)では、市場を細分化してとらえるセグメンテーションなどのように、旧来のマーケティング・パラダイムが崩壊しつつあることが指摘されている。

 これに対してデジタル・モバイル時代は、携帯電話やスマートフォンを個人で所有することが当たり前になり、さらに利用者の情報アクセスの動向や位置情報などを入手できるようになったことで、マーケティングの従来手法を使わなくてもターゲティングが可能になっている。実際、最先端技術を駆使して、携帯電話やスマートフォンの利用者をターゲティングした小さなモバイル広告を頻繁に見かける。しかし、調査によれば、5人に4人は広告を快く思っていないという。

 グプタはこうした問題意識の下、“For Mobile Devices, Think Apps, Not Ads.” HBR, March 2013.(邦訳「携帯端末への広告表示は嫌われる」DHBR2013年7月号)を寄稿した。この論文では、現代は見込み顧客を特定でき、アプリが従来型の広告よりも費用効率がよいうえに新しい収益源になるために、マーケターにとって、アプリが広告プラットフォームとして魅力的な存在になるという事実について、テレビやインターネットのワールド・ワイド・ウェブなどの新しい媒体の登場に応じて広告手法も進化してきたように、その歴史的発展から解き明かしている。

 人々がスマートフォンをどう利用しているかを観察すると、通話やメールを除けば、グーグルをはじめとする各種アプケーションにアクセスしている機会が多くを占める。そのためマーケターは、小さな広告枠を購入する代わりに、消費者の生活に付加価値を提供し、ブランドとの長期的な関係性を高めるアプリを構築する必要があると指摘した。そのうえで同論文では、アプリを活用するために、(1)利便性を加える、(2)独自の価値を提供する、(3)人とのつながりに役立つ価値を提供する、(4)インセンティブを提供する、(5)娯楽性を持つ、という5つの戦略を提言している。

 グプタは近年、デジタル化時代において、企業はいかにデジタル技術を活用した事業活動へ転換すべきか、というテーマを研究している。グプタのデジタル化に向けた事業転換の考え方は、企業組織の一部にデジタル対応の事業を立ち上げたとしても、それは成功のための事業転換とは言えないと指摘する。企業活動のあらゆる側面について、企業文化、バリューチェーン、顧客との関係性、ビジネスモデル、組織構造などの変革が必要ということである。

 グプタの最近の著作である、Driving Digital Strategy, 2018.(未訳)では、フォーチュン500にリストアップされた伝統的企業が、どのようにしてデジタル化に向けた事業転換を試みたか、企業のあらゆる側面から検討している。

 グプタが、インドでMBAを取得したあとに勤務したHMMは、英国でよく飲まれているチョコレート麦芽飲料のホーリック(Horlicks)とブースト(Boost)の販売会社である。HMMの元の名称は“Hindustan Milkfood Manufacturers Limited”であり、インドの伝統的企業であった。

 前述の通り、グプタは同社に2年間在籍したが、上司のマーケティング・ディレクターは学識豊かな人物で、グプタに革新的なマーケティングを学ぶように多数の研究論文を読むことを薦め、米国に留学してPh.D.を取ることを決意させた。グプタは、将来的にビジネス・コンサルタントになることを志しており、それにはPh.D.を持っていることは箔がつくと考えていた。だが、その間に研究の面白さを知り、アカデミア分野に転身することを決意した。

 グプタは自身の人生を回顧して、このように語っている。「人生は偶然の連続であり、決して決まり切った計画に従う必要はないと確信する」(I am absolutely convinced that life is a series of coincidences and it dose not follow a fixed plan. )[注2]、と。

[注1]現在の邦訳名は『情報経済の鉄則』(日経BP社、2018年)である。
[注2]iims-markathon.blogspot.com/2010/09/prof-sunil-gupta-head-of-marketing.html