
世界中で「ブラック・ライブズ・マター」運動が注目を浴びる中、黒人差別の実態が公になり始めている。だが、そうした悲痛な叫びは社会を本当に動かすのだろうか。現実には、みずからをリベラルで進歩的と称する白人たちによって沈黙させられることが多いと、筆者らは指摘する。その状況は、本来は公平な議論が成されるべき学術の世界でも変わらない。本稿では、自身もマイノリティである筆者ら自身の体験と実証研究に基づき、人種差別問題の本質を探る。
いま米国のビジネスとアカデミズムの世界では、人種間の正義について厳しい議論が行われている。「ブラック・ライブズ・マター」運動を支持する動きが全米で盛り上がりを見せる中、多くの米国企業が相次いでダイバーシティ(多様性)に関する声明を発表し始めた。このような議論は、好ましい成果を生むのだろうか。
私たちが行った研究や、私たちの個人的な経験、そしてほかの多くの人たちの経験を見る限り、楽観的になれる材料はあまりない。なぜか。有色人種が差別について声を上げても、白人の同僚たちにより沈黙させられてしまう場合が多いからだ。しかも、そうした白人同僚は往々にして、リベラルで進歩的であることを自任する人たちなのだ。
アカデミズムの世界では安心してそのような率直な対話ができるというイメージがあるようだが、現実はしばしば正反対だ。教育やそのほかの場で現状が変わらない限り、白人優位の場における人種平等は実現しないだろう。
筆者の2人は有色人種で、人種差別への反対と人種間の連携に生涯を捧げ、白人中心の学術組織の一員として生きてきた。どちらも、職場で人種が原因の敵意にさらされてきたという共通の経験を持っており、そうした共通点ゆえに友情をはぐくんできた。
本稿では、筆者ら自身の経験と関連の研究結果を紹介し、とりわけ進歩派の白人同僚によって有色人種が沈黙させられたり、脇に押しのけられたりするケースに共通するパターンをいくつか示したい。
筆者らやほかの人たちの経験は、人種間の正義について話したり、そうした問題を分析したり、問題を解決するために行動を起こしたりするのを妨げる障壁がいまだに存在することを浮き彫りにできるだろう。