「人種差別と向き合わない」レトリック
リベラルなイデオロギーは、さまざまな組織で人種差別について語られない状況を助長してきた。ビーマンによれば、「肌の色は重要でない」というイデオロギーが組織の文化と互いに作用し合うことにより、「人種差別と向き合わない」姿勢が生まれている。
この種の発想は、人種差別の重大さを直視せず、この問題の解決に取り組むことを拒む。具体的には、たとえば、厳しい会話を避けるために、泣くなどの感情的な反応を見せたり、アフリカ系米国人をいわゆる「有色人種資本」として扱ったり、白人の子どもが問題行動や人種差別的行動を取ることを防ぐ目的で、人種的な多様性のある学校に通わせたり、世界を旅した経験や異人種間で結婚した経験を理由に、みずからが特別な知見を持っていると主張したり……といった形を取る。
ビーマンは、これらの「人種差別と向き合わない」振る舞いをすべて経験してきた。人種差別に関する学部での議論の場でも、そのような経験をしたことがある。有色人種の大学教員に関する研究結果に対して、懐疑的な態度を示されたこともあった。
珍しく制度的人種差別についての議論がなされる場合も、白人はみずからがその会話を取り仕切りたがる傾向がある。ビーマンは近著で、この現象を「リベラルな白人優越主義」と呼んでいる。白人は常に、自分たちを道徳面で高い地位に置こうとするのだ。
この傾向は、具体的にはさまざまな形を取る。最も「意識の高い」進歩派という評価を獲得しようとして競い合ったり、人種差別や経済的不平等の問題に注目が集まってはじめて、そのような議論に参加しようとしたりする。
ビーマンの研究が指摘したようなことは、メラクもこれまでに経験している。白人の同僚たちは、「人種差別と向き合わない」ことにより、黒人たちの主張が脚光を浴びる要因になった問題と関わることを避けようとしてきた。
たとえば、あるときメラクは、みずからの専門分野のイベントをより多様性に富んだものにしようと目指したことがあった。しかし、その案に対して、あるリベラルな白人の同僚が疑念を示した。
黒人研究者に光を当てすぎている、というのが理由だった。この人物は、これまで白人研究者を中心に据えてきたイベントが「黒人のもの」になることを恐れたのだ。
これにより、白人中心の組織で黒人の声を大きく取り上げる道は閉ざされてしまい、メラクも沈黙せざるをえなくなった。この発言をした同僚(リベラル派の白人女性だった)は、みずからが反黒人的な「人種差別と向き合わない」レトリックを用いていたことを、おそらくまったく自覚していなかった。
これは、この出来事でとりわけ由々しきことと言えるだろう。