このような労働観が招く結果は、惨憺たるものだ。仕事のとらえ方次第で、私たちがどれだけの努力とエネルギーを仕事に注ぐかが決まる。リーダーがしばしばこの関連性を理解していないか、もしくは考えていないがゆえに、多くの人々が自分の潜在能力を発揮できずにいる。
これは、人間が本来持っている能力を発揮できないという意味で、大きな損失となる。だが同時に、経済的潜在能力を活かせないという意味でも、大きな損失となる。
仕事に対するエンゲージメントの喪失がまん延したことによる生産性の損失は、7兆ドルに上ると推定される。仕事へのエンゲージメントが最も高いビジネスユニットは、最も低いビジネスユニットに比べて、生産性が17%高く、収益性も21%高い。
従業員が仕事に打ち込み、満足感を懐いていることは、収益と株価に直接反映される。仮に2割未満ではなく、8割を超える人々が仕事にベストを尽くしていたら、どのようなことが可能になるかを想像してほしい。
そのために必要なのは何だろうか。まずは、労働観を変えることだ。
肉体労働であれクリエイティブワークであれ、雑用や苦悩と見なすのではなく、筆者が実感しているのと同じとらえ方ができる。すなわち、仕事とは人として不可欠な要素であり、個人の生きる意味を探求するカギであり、そして人生を充実させる手段であるという見方だ。
シニカルな見方が主流だったとはいえ、こうした仕事のイメージもまた、私たちの文化の中に存在してきた。
詩人ハリール・ジブラーンは雄弁にも、仕事を目に見える愛だと表現した。多くの宗教では、仕事は隣人を助け、神を敬う道だと教えている。また、心理学者ヴィクトール・フランクルによれば、高次のパーパスにかなう仕事は、人生の意味と充足を探求する基本的要素になりうるという。
そんなことは、クリエイティブな仕事に限ったことだと言いたくなるかもしれない。はたして、すべての仕事にこうした意義を見出せるものだろうか。答えはイエスであると、筆者は強く信じている。
あの夏の退屈なアルバイトを思い出すと、ウェグマンズを思い浮かべて比べてしまう。ウェグマンズは、良質なサービスと献身的な従業員で知られるスーパーマーケットチェーンだ。
あるいは有名な中世の寓話を思い出す。石切り職人の話だ。まったく同じ作業をしている石切り職人が2人いる。何をしているのかと問われ、一人は「見ればわかるだろう。石を削っている」と答える。だが、もう一人はまったく違うとらえ方をしていた。「大聖堂を建てている」と答えたのだ。
たとえば、現代の動物園の飼育員も、1人目の石切り職人のように、檻の中の掃除や動物の餌やりを、単調で汚い仕事だと思う可能性はある。また、飼育員の5人中4人が大卒者であることを踏まえると、本来の自分より下のレベルの仕事だととらえていても不思議はない。
ところが調査によれば、飼育員の大半は、動物の世話を自分にとって意義深い天職だととらえ、仕事を辞める人はほとんどいないという。どのような役割であれ、自分自身がパーパスを選び抜き、目の前の仕事とどう結びつくかを考えることができるのである。