2.変革のマネジメントを行うスキル
製薬大手メルクがヘルスケア事業部門の最前線で働く650人のセールスマネジャーのアップスキリング(スキル向上)に乗り出した際、変革を実行するスキルを育むことは大きな課題だった。
このアップスキリングの取り組みを開始するに当たっては、素早く成果を上げることが非常に重要だった。製薬会社にとって切実な問題は、医薬品の特許切れが刻一刻と近づいてくることだ。そのため、この業界では「時は金なり」という要素が大きいのである。一般論としてよく言われることであり、またさまざまな研究でも示されている通り、マネジャーが研修に参加しない理由として最も多いのは「忙しくて時間がない」というものだ。
もうひとつ重要だったのは、多様な市場環境と規制環境に対処できるようにすることだった。そこで、メルクでは65カ国のマネジャーを対象に40種類のバーチャルリアリティ(VR)のシミュレーションを作成した。それらのシミュレーションは、文化の微妙な違いに留意しつつ、7つの言語に翻訳して提供した。
シミュレーションで扱うテーマは、目標設定、問題解決、コーチング、部下のパフォーマンス評価などさまざまだ。マネジャーたちはシミュレーションで、性格や能力、課題が異なるセールス部員たちと遭遇する。やる気を抱けずにいるセールス部員もいれば、顧客との商談の約束を取りつけることに苦戦していたり、セールスの会話がうまくできなかったり、顧客データの漏洩問題への対処に苦労していたりするセールス部員がいる。
シミュレーションはマネジャーのノートパソコンで体験できるが、医師の診察室や、会議室、オフィス、列車の中など、実務で経験するリアルな場面を想定している。マネジャーは、与えられた情報をもとに、それぞれの状況で最善と思われるアプローチを選ぶ。そして、解答した後、最善の行動パターンについてフィードバックを受ける。
シミュレーションには、さまざまな難度の200以上のミニゲームが含まれていて、それらのゲームを行うことにより、特定のテーマについて知識を育むことができるようになっている。また、シミュレーションの一環として、社内外のステークホルダーを投影したアバターとリアルな対話も行う。
対話の内容は、それぞれのシナリオで参加者がどのような対応を選ぶかによって変わる。それを通じて、参加者一人ひとりの体験が形づくられるのだ。この点は、参加者のモチベーションを高めるうえで重要な要素になっている。こうした特徴は、旧来型のリーダーシップ研修で一般的だった最大公約数的なアプローチとは対照的だ。
メルクのヘルスケア事業部門でグローバル・コマーシャル・オペレーション担当副社長を務めるチェタク・ブアリアによれば、この取り組みは「目覚ましい成功」を収めたという。「セールスリーダーたちの成果が飛躍的に改善した」とのことだ。
そのような成功を収められた理由は、ほかの研修方法と比べるとはっきり見えてくる。ブアリアによれば、講義形式の座学で行う研修と比べて、この新しいアプローチは「研修に要する時間が70%少なくて済む」という。「現場のマネジャーの業務時間を合計2000日以上節約できる」のだ。
この点は、職場における能力開発で非常に重要だ。セールスなどの業務に就く人の場合、それはとりわけ大きな意味を持つ。有効な学習プロセスは、セールスに費やせる生産的な時間を減らすものであってはならないのだ。
バーチャルなシミュレーションを用いた研修には、参加者のモチベーションを高める効果もあった。メルクのセールスマネジャーの中には、プライベートの時間の多くをシミュレーションに費やしている人たちもいる。この点は、ノルマを課されて仕事をしている多忙なセールスマネジャーたちを対象にしていることを考えれば、特筆すべきことと言える。一般のeラーニングでは、このようなことは期待しづらい。
研修では、ビジネスパーソンが学習する際に、軽視できない重要な要素を取り入れることができる。仕事に就いている人たちは、実際に必要とされるタイミングではじめて、必要な情報に注意を払うことが多い。まだ必要とされない段階で、あるいは必要な段階が過ぎた後に、研修の場で用意された情報に関心を向けることはあまりない。
セールスマネジャーの場合、情報が必要だと感じるタイミングとはたいていセールスの電話をかけたり、コーチングを行ったりする時だ。シミュレーションの手法を用いることにより、言ってみればジャスト・イン・タイムの学習を実現できるのだ。
最後に、アップスキリングの取り組みでは、環境の変化に合わせて頻繁にコンテンツをアップデートする必要がある。セールスの研修はその典型だ。セールス部員とセールスマネジャーたちは、どの時点でも複数の顧客を抱えている。顧客はたえず入れ替わり、それに伴い、顧客たちの判断基準も変わり続ける。研修プログラムでは、国や商品カテゴリーによる違いも考慮に入れなくてはならない。
ほかの研修方法と比べた場合、バーチャルシミュレーションは、コンテンツの修正が容易だ。しかも、マネジャー自身が最も必要と感じるタイミングでコンテンツにアクセスし、スキルの練習をしやすいという利点がある。
研修の手段としてシミュレーションを用いる機会は拡大し続けている。いま話題のメタバースが触れ込み通りのものになるかはわからないが、多くの企業がVRに莫大な投資をすることにより、研修とシミュレーションの選択肢が広がっている。一方、座学を行う教室の外では(ほとんどのビジネスパーソンは教室外で生活の糧を得ている)、学習することを習慣付けることが重要だ。
その点、本稿で取り上げてきた企業の取り組みは、理論を土台にしている。しかも、利用しやすくなり、柔軟性も増しているテクノロジーによって支えられている。これらの事例を参考に、企業がどのようにして新しいテクノロジーを活用し、スキルを持った働き手の不足という社会問題を解決しつつ、自社の研修への投資に対する見返りを増やせばよいかを学んでほしい。
"Using Simulations to Upskill Employees," HBR.org, November 15, 2022.