日本近代製鉄の父――大島高任
南部藩の医師の子として陸奥国岩手郡盛岡(現岩手県盛岡市)に生まれた大島高任(たかとう・1826~1901)は、江戸に出て箕作阮甫(みつくりげんぽ) や坪井信道(しんどう)に蘭学や医学を学んだ後、藩命により長崎で兵学・砲術・採鉱・製鉄などを学びました。
1852年(嘉永5)、再び江戸で伊東玄朴(げんぼく)の塾に入門し、水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の知遇を得て製鉄技術者として招かれ、1854年(安政元)に那珂湊(現茨城県ひたちなか市)で大砲鋳造用の反射炉建設に着手し、1856年(安政3)、砂鉄から精錬した銑鉄(せんてつ)で大砲をつくることに成功します。
ところが、砂鉄銑が原料の大砲は、西洋の鉄製大砲に太刀打ちできません。そこで、良質の鉄鉱石を産する故郷南部藩の釜石(現岩手県釜石市)に洋式高炉を建設し、1857年(安政4)12月1日、わが国で初めて洋式高炉による製鉄に成功しました。
大島が洋式高炉を完成させる前、薩摩藩が洋式高炉を建設していますが、薩英戦争の折に破壊されており、鉄材の安定的供給という意味では大島の洋式高炉が日本初の操業と位置づけられ、12月1日は「鉄の記念日」となっています。
大島は、新政府でも製鉄・鉱山事業に尽力し、1871年(明治4)には岩倉使節団に加わり欧米の鉱山を視察し、ドイツではヨーロッパ最古の鉱山大学といわれるフライベルク大学で鉱山技術を学びました。帰国後は、小坂鉱山(現秋田県鹿角郡小坂町)や佐渡鉱山(現新潟県佐渡市)の鉱山局長などを歴任した後、1890年(明治23)には日本鉱業会初代会長に就任します。生涯にわたり日本における近代製鉄技術の基礎づくりと鉱山業の開発に尽くした大島は、「日本近代製鉄の父」と称されています。