「騎兵の父」と「工兵の父」

 軍隊には階級制度があります。これは軍事組織における上下関係と指揮系統の格付けを示すもので、日本陸軍で最上位に位置したのが陸軍大将です。陸軍大将は、明治の官僚制度で最高位の親任官(天皇の親任式を経て任命される)であり、内閣総理大臣や枢密院議長と同等位にありました。ちなみにわが国初の陸軍大将は西郷隆盛(1873年)で、以後134人の陸軍大将が誕生します。

秋山好古(1859~1930)

 陸軍の兵科将校を養成する教育機関・陸軍士官学校は、歩兵科・騎兵科・砲兵科・工兵科・輜重(しちょう)兵科のクラスに分かれていました。陸軍大将はこの分類でいえば歩兵出身者が圧倒的に多く、歩兵以外で大将に進級したのは、134人中、わずか砲兵20人、騎兵11人、工兵3人です。その数少ない騎兵と工兵の出身で、後に陸軍大将に進級したのが、「日本騎兵の父」と称される秋山好古(よしふる・1859~1930)と、「日本工兵の父」と称される上原勇作(1856~1933)です。

 司馬遼太郎氏の国民的大作『坂の上の雲』の主人公の一人として知られる秋山は、伊予国松山城下(現愛媛県松山市)に生まれ、陸軍士官学校(旧制第三期生)、陸軍大学校(第一期生)を卒業後、フランスに留学した将来を嘱望される騎兵科人材でした。

 騎兵第一大隊長として出征した日清戦争では、土城子(どじょうし)における白兵戦でその名を轟かせました。戦後、陸軍乗馬学校(後の陸軍騎兵学校)校長に就任すると、日露戦争を想定した騎兵の編成や戦術などを研究し騎兵科を確立したことから、「騎兵の秋山」の名は陸軍内部で高まります。日露戦争では、陸軍少将・騎兵第一旅団長として、世界最強といわれたコサック騎兵を相手に奮戦し、また、三倍の騎兵団を破る騎兵運用をしました。これらは、日露戦争前に著した『本邦騎兵用法論』を実戦に臨んで完成させたといわれています。

上原勇作(1856~1933)

 一方、日向国都城(現宮崎県都城市)出身の上原は、陸軍士官学校で秋山と同期(旧第制3期)でした。卒業後、同じくフランスへ留学し、フォンテンブロー砲工学校に学びます。帰国後、日本陸軍にヨーロッパの科学知識と合理精神を伝え、フランス陸軍を範とする工兵の創設に尽くしました。

 第二次西園寺公望内閣の陸軍大臣に就任して陸軍二個師団増設案を提出しますが、受け入れられなかったため1912年(大正元)12月に辞任し、後任者を出さずに同内閣を総辞職へと追い込みます。その際、「陸軍の意向を無視する内閣は潰す」と脅し、それを実現した初の陸軍軍人が上原です。

 長州閥が全盛を誇る当時の陸軍にあって、薩摩藩出身の陸軍大将野津道貫(のづみちつら)の娘婿であった上原は、薩摩閥として孤軍奮闘し、陸軍大臣、参謀総長、教育総監を歴任します。いわゆる陸軍三長官のすべてに就任したのは、上原と後の杉山元はじめの二人だけです。