東亜の父──石原莞爾

 陸軍にとって銃は不可欠な武器ですが、もう一つ忘れてならないのが戦車です。大正から昭和にかけて、戦車開発で世界技術の先端に到達するほどの技術的功績を残した原乙未生(とみお・1895~1990)は、熊本陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校(第27期生)を卒業後、砲兵少尉に任官します。砲工学校高等科を優等生として卒業したため陸軍大学校優等卒業者と同等に扱われ、卒業時は軍刀を授与されました。

 さらに東京帝国大学工学部機械工学科で「戦車設計」を研究し、卒業後、戦車の国産化を具申して、1927年(昭和2)に国産第1号戦車を完成させました。この戦車は野外試験で、最速20キロの「発進」に成功します。当時、ルノー製が時速8キロ、ホイペットA型が時速14キロであったことを考えると、堂々たる国産戦車の誕生でした。

 この時の野外試験について、終戦後、原はマッカーサー司令部の要求に応えて、「各部の機能、抗堪力は十分であって、その成績は良好であった。……軍が部内にみずから有する技術能力を危惧し、不可能と諦めていた認識を改め、国産によって優秀な戦車を生産しうる確信を得たのは、何よりの成功であり、かつ喜びであった。ここにおいて戦車隊に装備する戦車は、国産による方針を確定した」と回想しています。日本の戦車開発の黎明期に中心的役割を果たした原は、「日本戦車の父」と称されています。

 最後に紹介する陸軍軍人は、独自の戦略的思考を持ち、日本の陸軍にあってひときわ異彩を放つエリート軍人として知られる石原莞爾(いしわらかんじ・1889~1949)です。

石原莞爾(1889~1949)

 山形県西田川郡鶴岡町(現山形県鶴岡市)に生まれ、仙台陸軍幼年学校、陸軍士官学校(第21期生)、陸軍大学校(第30期生)を優秀な成績で卒業した石原は、軍事研究のためドイツに留学します。熱烈な法華経信奉者で、これに基づく歴史観・戦略観を持つ思想家として知られる石原は、フリードリヒ大王とナポレオンの戦史を研究し、この戦史研究と法華経信仰とを結合して「世界最終戦論」を構想します。石原は、近い将来、東洋文明を代表する日本と西洋文明を代表するアメリカとの間に人類最後の絶滅戦争=世界最終戦が起こると論じ、これに備えるために満蒙を領有し持久戦体制を構築するという満蒙領有論に基づき、関東軍を主導して満州事変ならびに満州国建国を推進しました。

 わずか1万数千の兵力で20数万の敵軍を破り、満州国建国を数カ月で成し遂げた軍事的快挙を賞賛される石原ですが、一方で、日本政府の不拡大方針を無視して戦線を拡大し、これが軍部の暴走を助長したとの批判も根強くあります。

 満州事変後は、参謀本部作戦課長、作戦部長などを歴任しますが、東条英機ら陸軍中枢と対立し、1941年(昭和16)に予備役に編入されます(最終階級は陸軍中将)。その後、立命館大学で教壇に立ち、東亜連盟協会の顧問として欧米帝国主義の圧迫を排除する「日満支」提携による東亜連盟の結成を訴え、熱烈な支持者を得て郷里の山形県鶴岡市を中心に運動を続けるなか終戦を迎えます。「民族協和」の満州国を精神的中核とする日本、朝鮮、満州国、中国などの協力により、21世紀には戦争を廃絶することを目指し、永久平和の到来の早期実現を図るべきことを提唱し続けた石原は、「東亜の父」と称されています。
(つづく)

「陸軍の父」10人の墓所
大村益次郎墓所(山口県山口市鋳銭司河原)
高杉晋作墓所(東行庵・山口県下関市吉田)
川路利良墓所(青山霊園・東京都港区南青山)
秋山好古墓所(青山霊園・東京都港区南青山/鷺谷墓地・愛媛県松山市祝谷東町)
上原勇作墓所(青山霊園・東京都港区南青山)
村田経芳墓所(谷中霊園・東京都台東区谷中)
有坂成章墓所(谷中霊園・東京都台東区谷中)
南部麒次郎墓所(不明)
原乙未生墓所(不明)
石原莞爾墓所(山形県飽海郡遊佐町菅里)

※大村益次郎、高杉晋作、上原勇作、秋山好古、村田経芳、石原莞爾、およびタイトル写真出所:国立国会図書館ホームページ