日本陸軍の武器開発の父たち

 近代日本の軍事的独立性を保つためには、高性能の兵器を整備しなければなりません。
創設間もない陸軍にとってこれは急務であり、西南戦争後、陸軍内には国産軍用銃を求める声が高まります。

村田経芳(1838~1921)

 薩摩藩士として砲術を学んだ村田経芳(つねよし・1838~1921)は、1863年(文久3)の薩英戦争で武器の性能差を痛感して銃の改良に取り組み、従来筒先から弾を込めていたのを手元から込めるよう改良した元込銃を考案します。維新後、銃器研究のためヨーロッパへ渡り、日本独自の銃開発を決意して帰国。1880年(明治13)にオランダ製ボーモン銃とフランス製グラー銃を参考に改良を加えた初の国産制式小銃「一三年式村田銃」を、さらに改良型の「一八年式村田銃」を開発しました。これは、日清戦争で陸軍が採用した主力小銃です。国産軍用銃の開発と発展に貢献した村田は、「国産小銃の父」と呼ばれています。

 1891年(明治24)、村田の退役に伴って陸軍砲兵工廠(ほうへいこうしょう)所属となった有坂成章(ありさかなりあきら・1852~1915)が、村田銃に代わる初の陸軍制式小銃として採用される「三〇年式歩兵銃」の開発に成功します。

 周防国岩国(現山口県岩国市)に生まれた有坂は、岩国藩銃堡局、陸軍兵学寮(陸軍士官学校)を経て、1882年(明治15)に陸軍砲兵大尉となります。兵器研究のためヨーロッパに赴き、後に砲兵工廠で大砲改良と銃砲製造に当たりました。

 1892年(明治25)に陸軍が速射砲採用の方針を採ると、速射砲の開発に尽力。有坂の考案した速射砲は、1895年(明治28)にイギリスのアームストロング砲などのヨーロッパ諸国の野砲と比較実験が行われ、有坂砲の優秀さが証明されたことから、有坂考案の「三十一年式速射砲」が陸軍に採用されました。

 有坂考案の歩兵銃と速射砲は陸軍全軍に配備され、ロシアの銃砲に勝る性能によって日露戦争を勝利に導いたといわれています。特に、歩兵銃は命中率でロシアのそれを大きく上回りました。村田と並び、日本が誇る銃砲開発者として陸軍中将まで進級した有坂は、日本における「兵器の父」と称されています。

 有坂の部下として歩兵銃を共同開発した南部麒次郎(なんぶきじろう・1869~1949)が1914年(大正3)に開発した「三年式機関銃」は、国産機関銃の信頼性を確立したといわれています。さらに、陸軍が正式採用したオートマチックピストル「南部一四年式拳銃」は終戦まで生産され、主力拳銃として使用されました。

 南部は陸軍中将に進級した後、陸軍を退役すると、1925年(大正14)に「南部銃製造所」(中央工業、新中央工業を経てミネベアに吸収、現ミネベア大森工場)を設立し、「南部一四年式拳銃」より小型の「九四式拳銃」を開発します。その後は機関銃や自動小銃の研究開発、小銃や軽機関銃などの製造に携わりました。現在、日本の警察官が所持する拳銃「ニューナンブM60」(ミネベア社製)などにその名を残す南部は、「日本機関銃開発の父」「日本拳銃界の父」と称されています。