日本のトップは「代表取締役担当者」

 わが国では一般的に、どのようにしてトップが選ばれるのだろうか。中間管理職時代の成功実績で、指名されることが多いのではなかろうか。ミドルの時代にものすごく頑張り、実績を積み重ね、いわばそのご褒美もあって「良くやった。お前が次の社長をやれ!」といった具合である。実績をあげて社長に選ばれた人は、自分がこれまで経験した領域についてはえらく詳しい。例えば営業出身のトップは営業部門の議題にやたら口を出す。あるいは自分がかつて担当した事業部門の話題になると、細かいウラのウラまで知り尽くしているので、現場担当者のあらゆる言い訳を先回りして追い詰めたりする。しかし自分が経験していない仕事の話になると「よきに計らえ。」を決め込む。

 このような日本のトップの姿を揶揄してか、一橋大学・楠木建教授は「日本の社長は“代表取締役担当者”」と呼ぶが、まさに笑えるほど言いえて妙である。ピーター・ドラッカーは日本的経営を極めて高く評価していた人で、日本が低迷を続けた「失われた10年」といわれた時代でさえ、「日本を侮ってはいけない」と言い続けたほどである。しかしその彼も次のように言っていた。「日本企業の弱点は経営トップにある」「日本の経営トップは経営しない」(1998年インタビューより。Forbes Japan,Nov.2014,p66より)

中間管理職は「部分最適」、経営トップは「全体最適」を考える仕事

 日本のミドルは優秀であると広く認められている。しかしトップの評価となると否定的なのはどうしてだろうか。それは日本の中間管理職層が、経営を勉強する機会を与えられていないからではないだろうか。日本ではトップはミドルの延長線上にあると漠然と受けとめられている。しかし実はミドルの仕事と経営トップの仕事は“まったく異なる”。中間管理職はいわば「部分最適の仕事」をしている。組織全体の中で、部分領域を任せられる。そこでは多くの場合、成し遂げるべき目的や目標が上から与えられる。役割期待を上回る成果をあげるのは、日本人にはやさしい。一方で経営トップには、目的や目標が与えられるわけではない。それを自らデザインし、人々に示すのがトップである。しかもそれは困難で悩ましい仕事である。

 例えば壮大なビジョンを掲げて目標を高く設定すれば、リスクは飛躍的に高まる。投資が大きくなり、失敗した時の反動が大きい。さらに従業員も付いていくのが大変で、組織が疲弊する。逆にビジョンを小振りにすれば従業員も楽になるが、今度は株主が許さない。株価が下がり、「経営陣交代」の声が高まり、自分の地位すらも危うくなる。意思決定が悩ましいのは、社内の投資配分も同じである。営業投資に力を入れると、研究開発や財務の部門長が文句を言い始める。新規事業に優秀な人材を集中配分すると、伝統的な既存事業の担当者たちは「俺たちが稼いでいるのに」と恨めしい顔をする。つまり全員がハッピーになる決断は存在しない。経営トップの意思決定とは、それほどに悩ましいトレードオフの中での微妙な決断なのである。しかし全体を視野に入れて、「全体最適」と考えられる決断をすることがトップの仕事である。

 「部分」と「全体」。中間管理職と経営トップの仕事は、かようにまったく違うのだ。しかし日本では「ミドルの双六のアガリがトップ」のように考えられ、ミドルが経営トップの仕事の勉強をしないまま引き上げられる。そしてトップに就くと、「何をしたらいいのか?」わからないのである。いきおい「経営をしない」で時をやり過ごすことになる。私はそうした事例をたくさん見てきた。そして確信している。日本に足りないのは、経営教育であると。