なぜ、同じ「経営」をテーマとしながらも、経営の実務と学問としての経営戦略の間には、これほどまでに大きな隔たりが存在するのか。本連載では、長く実務の世界に身を置きながら、学問としての経営学を探究し続ける、慶應義塾大学准教授の琴坂将広氏が、実務と学問の橋渡しを目指す。第7回は、経営戦略を現場で活かすためにまず、欧米と日本の教科書の分析から社会科学としての経営戦略の意義と限界を示す。そのうえで、科学的論拠は浅くとも有用な戦略フレームワークをどう活用すべきかを議論する。
連載「経営戦略を読み解く〜実務と理論の狭間から〜」の一覧はこちら。
本連載ではこれまで、経営戦略という思考の流れを紀元前から1990年代まで遡り、その発展の歴史を概観してきた。ここまでは、いわば事実の理解といえよう。ここまで紹介してきた理論発展の潮流が存在することに、大きな違和感を覚える研究者はおそらくいないはずだ。私自身、「これはこういうものだ」とある程度は断言できる範疇の議論であった。
さて、議論が複雑化するのはここからである。
経営者やマネジャーは、どのように事業戦略をつくればよいのか。全社戦略において何に気をつけるべきなのか。そのような実践的かつ規範的な議論においては、唯一絶対の正しい答えは提示し得ない。そもそも、世界最上級の経営戦略の理論家であっても、「正しい答え」には行き着いていない。それはまさに、一橋大学の楠木建先生との対談(前編・後編)で議論した「経営論」の世界である。したがって、ここからは多分に私見が入ることをご容赦願いたい。
今回は、事業戦略をどう考えればよいのかを議論する。まず、世の中の経営戦略の教科書が事業戦略をどのように扱っているのかを解説する。次に、社会科学の作用を準拠する教科書とは異なり、より個人の主観に立脚するような「戦略フレームワーク」をどう活用すればよいかに触れる。そのうえで、事業戦略に関する持論もご紹介させていただきたい。
欧米の教科書に見る
事業戦略立案の定石
事業戦略の立案に唯一絶対の正しい答えは存在しないと断言したが、では、経営戦略の教科書はそれをどのように教えているのだろうか。
まず、日本語訳が存在し、欧米で広く使われている教科書3冊、そして、日本語で出版され、タイトルに「経営戦略」が含まれる教科書3冊の計6冊[注1]がどのように事業戦略立案を取り扱っているかを概観したい。
最初に、欧米の教科書3冊を見てみよう(表1参照)。
表1:欧米ビジネススクールの教科書を比較

出典:筆者作成
マイケル A. ヒットの『戦略経営論』(同友館)は、米国で毎年5~6万部は販売されているベストセラーである。噛み砕かれた基本的な内容が中心であり、大学院生のみならず、学部生向けの教材としても人気がある。ロバート W. グラントの『グラント 現代戦略分析』(中央経済社)は、欧州や北米のビジネススクールを中心に、多くの大学院で採用されている標準的な教科書である。事例に関しても、理論に関しても、常に最新の議論が反映されることで評価が高い。ジェイ B. バーニーの『企業戦略論』(ダイヤモンド社)は、前回も紹介した資源ベース理論の大家が記した作品であり、これも特に同理論の系譜を探究する大学教員を中心に、欧米のビジネススクールでは数多く採用される教科書である。
『戦略経営論』と『グラント 現代戦略分析』は、比較的バランスよく外部環境の分析と内部環境の分析を解説したのちに、競争優位をどのようにつくるかを解説する。 前者は、そもそも、それを実現するための事業戦略とは何かという基本の解説に重点を置いており、後者は、競争優位を実現するための具体的方策(差別化、コスト優位、イノベーション)により重点を置いている。
『企業戦略論』は、「SWOT分析」[注2]を源流とする発想で、機会(Opportunity)と脅威(Thread)の観点から外部環境を整理し、そのうえで、強み(Strength)と弱み(Weakness)の部分を、資源ベース理論から発案された「VRIO」[注3]フレームワークで置き換えて解説する。そして、ポーターの基本戦略など関連する他の議論で整理されていた要素(垂直統合、コストリーダーシップ、製品差別化、柔軟性、暗黙的談合)を、その切り口から再整理して解説している。
同書の標準的な切り口は、『戦略経営論』と『グラント 現代戦略分析』のようにバランスよく定石的な考え方を押さえたうえで、著者の持論・得意分野を付加的に解説する構成であろう。これは欧米の多くの経営戦略の教科書で共通した構成であり、いわば定石ともいえる。具体的には、以下の通りである。
1.外部環境を理解する:ポーターのファイブ・フォース分析やPESTEL分析、シナリオ分析など、本連載の第5回で解説した手法を用いる。
2.内部環境を理解する:資源ベース理論や知識ベース理論、ダイナミックケイパビリティなど、本連載の第6回で解説した概念を用いる。
3.競争優位の源泉を決める:差別化、コスト優位、イノベーションの3つの主な方向性があり、特殊な競争環境では、競合との関係がカギとなる。
3つめの競争優位の源泉を決める際には、ポーターの基本戦略(差別化戦略、コストリーダーシップ戦略、集中戦略)のうち、差別化戦略とコストリーダーシップ戦略が重点的に取り扱われる。集中戦略に関する議論が少ないのは、それは差別化かコストリーダーシップによる優位を限られた顧客層に提供するにすぎないからである。
また、競争優位の源泉を議論する際に、イノベーションは差別化とコスト優位と同じかそれ以上に重要な基軸となる。第6回で示したように、日本企業が世界市場を席巻した理由は、既存の産業構造内における差別化やコスト優位といったポジショニングではなく、イノベーションによる新しい産業構造の創出であった。したがって、1990年代以降の議論として、資源ベース理論と同様にイノベーションに関する議論は大きな発展を遂げている。
さらに、特に成熟産業などの寡占市場において競争優位を持続させるためには、 競合と自社の繰り広げる競争によって引き起こされる行動と反応の連鎖、競争のダイナミクス(Competitive Dynamics)を理解することが不可欠となる。そのため、特に限られた競合との関係性が重要となる状況では、ここに重点を置いた議論が行われる。
バーニーの『企業戦略論』のように、特定の理論体系を基軸として経営戦略の議論を再編成する試みも確かにある。ただ、同書のように広く受け入れられる優れた教科書はあまりない。これはバーニー自身が資源ベース理論の大家であり、極めて影響力と発信力の大きい研究者であることが可能にしたのではないか。
私の理解では、多少の表現の好みの違いやページ配分の違い、事例の有無、難易度などの差異はあれども、経営戦略の世界でも、世界的に教えられる内容の統一化が進行している。その結果、定石ともいえる理論紹介の構成が次第に普及してきた。これはひとえに、社会科学として認められることを切に願う、経営学者の日々の努力の賜物であろう。
日本の教科書に見る
事業戦略立案の定石
次に、日本の経営戦略の教科書の例を見ると、その傾向は少し異なることがわかる(表2参照)。
表2:日本の経営戦略の教科書を比較

出典:筆者作成
『MBA経営戦略』(ダイヤモンド社)は、グロービスグループが出版するグロービスMBAシリーズの経営戦略版である。『経営戦略入門』は、日本経済出版社のマネジメント・テキストシリーズの経営戦略版であり、多くの日本の大学における経営戦略の講義で採用されている良書である。『経営戦略をつかむ』は、ともにカリフォルニア大学ロサンゼルス校で博士号を取得した早稲田大学の浅羽茂教授と慶應義塾大学の牛島辰男教授による作品であり、経済学の知見が随所に反映された優れた教科書である。
『MBA経営戦略』は、初学者や若手の実務家を意識しているようである。比較的敷居の低い基本的な経営戦略のツールの解説から始まり、著者の相葉宏二氏がボストン コンサルティング グループ(BCG)のコンサルタントであったことも背景にあるのか、BCG関連の著作やフレームワークがいくつか紹介されている。ページ数も絞られており、エッセンスに注力をしている印象を受ける。
『経営戦略入門』は、その解説に日本企業の事例と市場統計情報が豊富に取り入れられているのが特徴的だろう。1つひとつの解説が丁寧であり、難解な箇所には具体的な事例が添えられている。解説の骨格はポーターの産業構造分析から基本戦略を提示する流れを踏襲しているが、マーケティング研究とイノベーション研究からの知見を応用して、深みのある議論を展開している。
『経営戦略をつかむ』は、欧米の教科書の定石を踏襲して、外部環境の分析、内部環境の分析を述べたのちに、ポーターの基本戦略を紹介したうえでイノベーションを取り上げ、さらに業界標準や産業構造の変化に議論を進めている。細部の解説には経済学の観点から議論する潮流の学術的知見が活かされており、しかも、それが学部生にも理解できるようにシンプルに落とし込まれている。
これらの作品は、日本で流通する経営戦略の教科書の典型的なパターンを表しているように思える。『MBA経営戦略』のように、エッセンスに焦点を当て、わかりやすさと実務的な視点を重視するパターン。『経営戦略入門』のように、基本的な土台は欧米の研究成果を参照しつつも、それを日本市場と日本企業のデータから再解釈し、日本の経営学の学会に蓄積された知見を色濃く反映するパターン。『経営戦略をつかむ』のように、構成も理論的基盤も欧米で主流の潮流に準拠しながら、それを日本の文脈に現地化(ローカライズ)するパターンである。
さらに全般として、ここでは取り上げなかった無数の事業戦略を議論する書籍も含めて検討した結果、 大きく2つの傾向があると考えている。
1.事例や情報が日本にほぼ限定されている:米国の教科書が米国の事例が中心であるのと同様に、日本の経営戦略の議論は、インターネット・サービスなどグローバルな一部の産業領域を除き、日本市場における競争しか取り上げていない。
2.イノベーションとマーケティングの研究成果が頻繁に採用される:欧米の教科書であれば資源ベース理論とそれに関連する処理論で解説される要素が、イノベーションの理論で解説される傾向がある。同様に、戦略グループの概念やゲーム理論の諸概念で解説される要素が、マーケティングの研究成果で解説される傾向もある。
ただし、これらは前述の定石に大きく外れるものはない。外部環境を知り、内部環境を知り、競争優位の源泉を議論することが、事業戦略立案の基本的なプロセスである。その細部をどのように味付けするかは、もちろん著者の好みによって分かれるところである。
社会科学に立脚する議論の意義と限界
このように、事業戦略の立案にあたって定石的なプロセスが存在する背景には、経営戦略の近年の発展の経緯が大きく影響している。
特に欧米の教科書は、広く流通する優れた教科書であるほど、それぞれの説明に詳細な引用文献が示されている。日本語に翻訳される過程でそれが割愛されているものも多いが、元来は研究成果の集大成としてもつくられており、各章末の引用文献一覧は、学術論文、書籍、雑誌新聞記事で埋め尽くされている。すなわち、欧米の経営戦略の教科書は、可能な限り学問的な議論の系譜に立脚しようとしている。
その結果、必然的に、1980年代から勃興した外部環境分析の議論を行い、1990年代から主流となった内部環境分析の議論に触れ、2000年代以後の議論の発展を参照したうえで、外部環境分析と内部環境分析を統合した競争優位の議論を解説する流れが定石となった。すなわち、「その構成が実務的に最上である」という理由からつくられているわけではないのだ(もちろん、それが有効であることは否定しないが)。
また、社会科学としての経営学の立脚を志す研究者の多くは、実証的な議論(どうあるか)を好む傾向があり、規範的な議論(どうあるべきか)に極めて慎重である。これは、因果関係と相関関係の違いにも似ている。たとえば、CSR投資(企業社会責任投資)を推進している企業の業績が、それをしていない企業に比べて大きく好調であるとしよう。しかし、その事実のみからでは、CSR投資をすれば企業の業績が上向くとは言い切れない。潜在変数が抜け漏れているかもしれないし、逆の因果を操作しきれていないかもしれない。そもそも、実社会の状況は刻一刻と移り変わっているため、実験室的環境下とは異なり、過去の因果関係が強く示唆されたとしても、再現性を完全に担保できるとは限らない。
そのため、学術的な教科書であればあるほど、“should (すべき)”や“must (でなければならない)”といった断定的な表現は用いられない。社会科学として確立された作法に則った調査研究に基き、確実に判明している事柄に立脚しているので、実務家が本当に知りたい部分に関しては、個別具体的な事例の解説でお茶を濁すしかない。それは、実務家から見ると極めて歯切れの悪い文章となり、つまらない内容となる。
あくまで教科書は教科書であり、定石は定石である。そして、実際の勝負は定石を押さえた先の世界で決まることも確かである。
[注2]戦略を検討する際には、企業自身の「強み(Strength)」と「弱み(Weakness)」、ならびに市場に存在する「事業機会(Opportunity)」と「脅威(Thread)」を理解すべきとする考え方。その頭文字をとり「SWOT分析」と呼ぶ。
[注3]強みと弱みではなく、VRIOを頭文字とする4つの問いに答えるべきとする。その4つとは、企業が従事する活動の「経済価値(Value)」「希少性(Rarity)」「模倣困難性(Inimitability)」「組織(Organization)」に関する問いである。