人間が頭と心の働きを鍛えて、ディープな学習ができるようになり、レジリエンスを育み、情報を行動に移し、競合するアイデアやアプローチをクリエイティブに評価できるようになるためには、近道は存在しない。それは何十年も前からわかっていることだ。こうした部分での習熟度こそが、変わりゆく現代の仕事や未知の仕事が突きつけるチャレンジに対応するうえで、必要とされる資質である。
職場や社会機構、世界秩序は、そこで生きていくのも管理するのも複雑かつ困難になる一方であり、蓄積された知恵と、対人関係上の能力や実践的な能力、そして少なからぬ批判的思考と分析的思考、利他的思考を持ち合わせた人材のニーズは高まっている。
「現在の」経済的生産性を高めるという名の下に、教育的成長や人間的成長の時間を短縮し、細分化することは、近視眼的であると同時に、個人と国家の繁栄、さらには市民的な民主主義社会の長期的なウェルビーイングに壊滅的な影響を与えるだろう。
もう一つ気がかりなのは、歴史的に十分な恩恵を受けていないグループ(たとえば低所得者や民族的マイノリティ)の学習者たちが、不当に多くの割合で、こうした短期間の職業訓練に参加する(または押し込められる)可能性だ。このようなグループ出身の学生は、学費が高額に上る営利教育機関(コリンシアン大学やITT工科大学、米国教育公社など)の、誤解を招く宣伝文句にだまされた人々の多くを占めた。
確実なことを知る方法はないが、短期間の職業教育を猛烈に推奨する人の多くも、自分の子どもは、学士号を取得できる大学や総合大学に行かせようとするのではないか。このような大学では、みずからの視野を広め、かなりの量の文章を読み書きし、長い時間をかけて難しい問題に取り組み、複雑な問題に代替的解決策を生み出すこと(つまり将来の基盤となること)に、多大な努力を費やす可能性が高い。
教育において、あまりにも多くを、あまりにも素早く、あまりにも安上がりにやろうとする危険性について、ビジネスリーダーは一貫して、結束して、頻繁に声を上げるべきだ。
中等教育後の教育や訓練に何が求められているかに関する議論は、バランスを見直す必要がある。また、業界のリーダーたちが経験から学んできたことと、自立的で市民としての責任があり、充実した人生を送るために必要であると教育研究が明らかにしてきたことに基づき、議論を組み立てる必要がある。
米国の高等教育に改善の余地が多分にあることは間違いない。だが、学生が教室の内外でインパクトの大きな学習活動に参加するよう、大学が意識的にカリキュラムを設計すれば、学生に大きな変化をもたらすことはできる。ライティングの集中コースや、学部研究、地域活動、インターンシップといったインパクトの高い活動は、歴史的に十分なサービスを受けてこなかったグループの学生たち(未来の労働者とコミュニティーリーダーの多くを占めるであろう)に、とりわけ大きな恩恵をもたらすだろう。
残念ながら、このような活動に参加する学生はあまりにも少ない。だがいま、カリフォルニア州立大学ドミンゲスヒルズ校、ウースター工科大学、スプリングフィールド・カレッジなど多くの大学が、カリキュラムを変更して、こうした活動への参加を必修にしている。
中等教育後の教育プログラムを短縮化することは、学生にとっても、教育機関にとっても、そして多くの雇用主にとっても、短期的にはコスト削減になるかもしれない。しかし、高いレベルの知的・人的・社会的開発と関連する、要求の厳しい教育経験(それは生涯学習の基礎となる)よりも、短期間の職業訓練に重点を置くことは、個人にとっても、米国経済の長期的な活力にとっても、そして我が国の民主主義にとっても、よい考えとは思えない。
HBR.org原文:Why Skills Training Can't Replace Higher Education, October 09, 2019.
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ジョージ D. クー(George D. Kuh)
インディアナ大学名誉教授(高等教育学)。共著書にUsing Evidence of Student Learning to Improve Higher Education(未訳)がある。