筆者は2021年、反ユダヤ主義とイスラム教徒への偏見を非難するメールを、全社に送信したことがあった。すると数日後、中東オフィスで働くアラブ人とパレスチナ人のグループから反応があった。彼らは思慮深く美しい文章によって、筆者のメールに抜け落ちていた視点を指摘してくれたのだ。
具体的には、筆者が資料としてリンクを張った記事に失望したとのことだった。パレスチナで危機が起きている状況では、反ユダヤ主義とイスラム教徒に対して、読み手の誤解を招きかねない記述が複数あったという。筆者はインクルーシブであろうとしたのに、一部の社員に疎外感を与えてしまったのだ。
このような状況に陥った時、人間がいかなる反応を示すかは大きく2つに分かれる。1つは、自己弁護に走り、釈明して切り抜けようとするパターンだ。たとえば、「ほかの人の意見も聞かずに、このメールを書いたわけではありません」と言い返したり、「細かい点にこだわりすぎではありませんか。それでは、もっと大きな視点を見失ってしまいます」と反論したりする。
もう1つは、自分の責任を全面的に認め、気分を害した人たちと話し合い、その経験から学び、よりよい行動につなげるパターンだ。どちらが好ましいかは、言うまでもないだろう。
筆者はその時、指摘への返信で自分の間違いを認めた。資料の出典の妥当性を検証するために幅広い層の社員に相談するのを怠ったこと、特に中東で働くアラブ人とパレスチナ人の社員を含む、重要な地域で働く社員の声を聞かなかったのは不適切だったと、反省を述べた。謝罪し、自分の責任を認め、次回はもっと適切な行動を取ると約束した。
筆者と中東の社員グループの面々は、この経験から学ぶために話し合いの機会を設けた。そのおかげで、筆者は中東の複雑で微妙な文化的問題に関して、自分が知っていること、そして知らないことについて、じっくり考えることができた。
中東の社員が、協働の精神を持って、この問題について話し合おうとしてくれたことに、筆者は心を打たれた。その話し合いが終わる時には、より親しくなることができた。この時に得た教訓は、筆者自身が2021年に学んだことの中でも、とりわけ重要な学びの一つになった。
筆者は批判を浴びたが、中東の社員は筆者のことを受け入れてくれたのだ。