「許し」を誤解すると、許すのがさらに難しくなる

 まずは、「許し」をわかりにくく複雑な概念にしている、いくつかの誤解を解いていきたい。

「許し」は信頼の回復を意味するわけではない

 許すという道を選んだからといって、自動的にその人を再び信用しなければならないわけではない。傷ついた信頼を回復するには、時間が必要だ。相手を許したからといって、過去を消し去り、傷ついた記憶を消去できるわけではない。したがって、よく言われる「許して忘れろ」という表現は、人の純粋な「許し」の能力を低下させる。

 「許し」の定義の一つは、「報復する権利を放棄すること」である。これは、怒りに任せて他者を罰する行為を手放すだけのことだ。許すという行為には、傷つけられた記憶を癒す力があるが、その記憶を消し去るものではなく、相手への信頼をどの程度回復させたいかの判断はあなたの裁量に委ねられている。

「許し」とは正義を犠牲にすることではない

 マークからの追加質問の中に、「それでは、エイデンは単に自分のしたことから逃れられるのですか」という問いがあった。マークは許しという概念によって、公正さと説明責任の感覚が危険にさらされていると感じたのだ。

 彼の質問の根底には、エイデンが自身の言動の報いを受けていない、という前提があった。そこで私は「もちろんエイデンは、自分の言動に責任を負う必要があります」と答えた。「私はただ、『あなた』が正義の審判を下す重荷を抱え込まなくていい、と言っているのです。そして、エイデンが責任を取るまでは、彼の言動を生み出す要因だとあなたが直感的に感じるもの──深刻な不安定さ、恐怖心、不安など──が実は暫定的な罰になっている、と考えてみましょう」

 「許し」は悪い行動を容認することではない。相手を許してしまうと、問題となっている行動が許容範囲だというサインを無意識に発し、その言動を続けるよう促すことになる、と懸念する人は多い。

 だが、「許し」は承認ではない。単に自分のコントロールの及ばない物事を受け入れるだけのことである。「許し」にはすでに起きたことを変える力はないが、ネガティブな感情に振り回される代わりに、そうした感情を自分でコントロールできれば、今後の展開を変えることは可能だ。

 許しをめぐり、ここに挙げたような誤解をしていると、許すことへの抵抗感が生じる可能性がある。相手を許せずに苦しんでいる人がよく口にする言い分をいくつか紹介する。

「都合よく利用されたくない」

 許しを与えると、その人の攻撃的な行動がさらに強まるだけだ、という恐怖心を抱きやすい。たしかに相手は変わらないかもしれないが、だからといって、あなたが境界線を引く、相手との交流を減らすといった行動を取っていけないわけではない。相手の行動の原因が悪意であれ無知であれ、あなたがじっと耐える必要はない。相手の行動をコントロールするのは不可能だが、何が許容範囲で、何がそうでないかを明確にすることはできる。

「怒っていると気分がいい」

 相手を許さないと、独善的な満足感が一時的に高まる。そうした感覚には、安心感と優越感、「正しい」という感覚を高める魅力がある。とはいえ、それは一瞬の話。時間が経つにつれ、ネガティブな感情を何度も反芻することで、気分が滅入ってくる。

「何もかもあいつのせいだ」

 許しをめぐる最大の難関は、問題に対する自分の潜在的な関与の度合いについて内省を求められることだろう。まったくいわれのない理由で、慢性的に迷惑行為を受ける場合もたしかにあるが、一方であなたが完全に無関係であるケースはほとんどない。

 私はマークにこう尋ねた。「エイデンに対するあなたやチームの対応が、彼の行動を助長してきた可能性はありませんか。疎外されたという感覚が強まるほど、彼はあなた方の尊敬を得るために自分の価値を正当化しようと試み、手持ちの唯一の手段に訴えるのではないでしょうか」

 私の狙いは、エイデンの行動を弁明することではなく、彼の行動を説明するための一つの可能性を提示することだった。