『ハーバード・ビジネス・レビュー』を支える豪華執筆陣の中で、特に注目すべき著者を毎月一人ずつ、東京都立大学名誉教授である森本博行氏と編集部が厳選して、ご紹介します。彼らはいかにして現在の思考にたどり着いたのか。それを体系的に学ぶ機会としてご活用ください。2020年12月の注目著者は、ハーバード・ビジネス・スクール教授のタルン・カナ氏です。

新興国市場の「制度の空隙」を
どうすれば埋められるのか
タルン・カナ(Tarun Khanna)は1966年、インドに生まれた。現在54歳。ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)の戦略ユニットに所属するホルへ・パウロ・レマン記念講座教授として、戦略、コーポレートガバナンス、国際ビジネスを担当する。主な研究分野は多国籍企業の新興国市場戦略、および新興国企業のグローバル戦略と起業家精神である。
カナはHBSだけでなく、ハーバード大学の学部、ハーバード・ケネディ・スクール、ハーバード・ロースクール、ハーバード教育大学院で受講できる科目として、“Contemporary Developing Countries: Entrepreneurial Solutions to Intractable Problems”(現代の開発途上国:困難な問題を起業家のように解決する)も担当している。
また、ハーバード大学の無料オンラインプログラムとして、世界200カ国50万人の学生が受講するedXでは、”Entrepreneurship in Emerging Economies”(新興国経済における起業家精神)というテーマで講義を行っている。
カナは、インドのバンガロールにあるセント・ジョセフ・ボーイズ・スクールを卒業後、渡米した。1984年にプリンストン大学に入学すると、電子工学とコンピュータ・サイエンスを専攻。1988年に最優秀の成績(Summa cum Laude, Phi Beta Kappa, Highest Honors)で卒業している。
プリンストン大学を卒業したのち、カナはHBSの博士課程に進学し、1993 年にビジネス・エコノミクスのPh.D.を授与され、同年にHBSのファカルティメンバーとなった。その後、1998年に教授に昇任して、2004年からホルへ・パウロ・レマン記念講座教授を務める。2010年からは、ハーバード大学の全学的な教育研究機関であるラクシュミ・ミッタル・アンド・ファミリー南アジア研究所のディレクターも兼務している。
インドを母国とするタルン・カナの問題意識は一貫している。それは新興国市場において制度が未整備の領域、すなわち「制度の空隙(Institutional Void)」の存在することで、先進国の大企業や起業家が新興国市場でビジネスを展開する際の障害となっていることである。
カナはHBS教授のクリシュナ G. パレプとの共著で2010年、Winning in Emerging Market(邦訳『新興国マーケット進出戦略』日本経済新聞出版、2012年)を上梓した。カナらは同書の中で、以下のような議論を展開している。
先進国の市場機能は、その国の歴史、政治、文化、経済社会システムの発展により形成されてきた。そこには、市場機能のルールを規定した法制度や、必要な市場情報を提供したり、取引完了に欠かせない契約をさせたりする、さまざまな市場仲介者が存在する。制度の空隙とは、新興国市場における市場仲介者の不在または機能不全から生じる空隙であり、新興国の資本市場、製品市場、労働市場の形成に大きな影響を与える。
カナは『ハーバード・ビジネス・レビュー』(Harvard Business Review、以下HBR)誌に、新興国市場の制度の空隙が新規参入企業にもたらす限界、および制度の空隙を埋める仕組みづくりの起点を考察するうえで、新興国企業がグローバル企業に成長する過程を調査し、そこで得られた発見と提案を論文にまとめてきた。
新興国市場の制度の空隙は
どのような影響をもたらすのか
"Why Focused Strategies May Be Wrong for Emerging Markets," with Krishna G. Palepu, HBR, July–August 1997.(「集中戦略はなぜ新興市場で機能しないのか」『経営戦略論』ダイヤモンド社、2001年)では、新興国の財閥企業グループが多国籍企業に対抗するには、集中戦略ではなく多角化戦略のほうが優位であると主張した。
先進国のコングロマリットは1960年代から1970年代にかけて解体された。それに対して新興国では、持ち株会社となったものの、財閥が経営するコングロマリット経営の企業グループが存在する。
グローバル競争が激化する中、新興国市場の企業グループは多国籍企業の参入に対抗するために、事業を縮小して、コア・コンピタンスを持つ事業に専念する集中戦略を選択しがちである。しかし、新興国には資本市場の効果的な規制も、起業を支援するベンチャーキャピタルも存在しないので、資金調達は困難が伴うことが多い。また、新興国市場には「制度の空隙」が存在するため、事業創造に成功する可能性も限られている。
カナは、新興国市場の財閥企業グループは、欧米で考えられている集中戦略を適用するのではなく、むしろ多角化戦略によって規模と範囲の経済の優位性を獲得すべきであると主張した。
また、"The Right Way to Restructure Conglomerates in Emerging Markets(新興国市場でコングロマリットを再構築する適切な方法)," with Krishna G. Palepu, HBR, July–August 1999.(未訳)では、財閥企業グル-プが新興国市場の制度の空隙を埋める存在になることを求めた。
欧米の金融専門家は、新興市場における多様なビジネスグループ(あるいは1つの親の下にある関連会社)は解散すべきだと主張していた。これらの巨大なコングロマリットを解体すれば、資産を売却することで負債を減らすなど、非効率性を軽減することができるというのだ。その論理は1980年代、先進国企業が資産分割に成功した際の教訓に基づいている。
しかしカナらは、韓国の財閥やインドのタタ・グループのような事業グループを解体するのは、時期尚早であると主張した。
新興国には経済成長の基盤となる、銀行、ビジネススクール、コーポレート・ガバナンス・プロセスなどのソフトインフラが欠けているが、そのようなインフラの構築には時間を要する。そして新興国の多くの企業グループは、市場仲介者の不在や弱さをみずから埋めることで、その役割を補っている。たとえば、ある企業グループの関連会社の資金を新しい企業グループに提供する場合、彼らはベンチャーキャピタリストの役割を担うことになる。
政府は財閥企業グループを解体するのではなく、金融、労働、資本の市場制度を生み出すことを図るべきであり、その間、財閥企業グループがそれらの市場制度や機関を代替させるようにすべきだとカナらは主張した。財閥企業グループの市場仲介者としての役割を強化し、市場の最終的な発展に備えるために活用できるビジネスツールとモデルを提案している。
"Strategies That Fit Emerging Markets." with Krishna G. Palepu, and Jayant Sinha, HBR, June 2005.(邦訳「制度分析で読み解くBRICs攻略法」DHBR2006年5月号)では、新興国市場に参入した先進国企業のほとんどが苦戦を強いられている要因を探った。
カナは、先進国企業が苦戦する理由として、新興国市場の「制度の空隙」を認識していなことにあると指摘した。すなわち法規制の未整備、取引契約を履行させる仕組みや市場仲介者の欠如など、市場取引を円滑に進めるためのソフトインフラが整っていないことにある。
新興国市場に参入する際、先進国企業はマクロ指標を用いて、市場規模と成長性、政治的および経済的な安定度を分析する。ただし、マクロ指標では制度の空隙について認識することはできないとカナは主張する。
この論文では、マクロ指標では理解できないソフトインフラの制度的環境分析ツールとして、(1)政治制度と社会制度、(2)開放性、(3)製品市場、(4)労働市場、(5)資本市場という5つの視点からなるフレームワークを提示した。そして、そのフレームワークをBRICsに当てはめて分析し、先進国企業がBRICs各国に進出する時に採用すべき3つの選択肢を提示している。
第1の選択は、企業が母国で顧客に示しているバリュープロポジションを保持しながら、自社のビジネスモデルを修正して適応させることである。第2の選択は、新興国に進出する企業が既存の経済ルールに影響を与えて、制度的環境を変革することだ。第3の選択は、自社のバリュープロポジションに合わせたビジネスの展開が困難であれば参入を見合わせるか、撤退することである。
BRICsで成功した企業としてGE(ゼネラル・エレクトリック)が挙げられる。GEの成功は、制度の空隙を認識し、自社のビジネスモデルを修正して、中国とインドを単なる市場として捉えるのではなく、バリューチェーンに変革をもたらす人材とイノベーションの供給元として捉えたことにあるとタナは言う。
多国籍企業はどうすれば
新興国市場で成功できるのか
タナは2006年、"Emerging Giants: Building World-Class Companies in Developing Countries," with Krishna G. Palepu, HBR, October 2006.(邦訳「新興市場で成長する企業の条件」DHBR2007年6月号)を寄稿した。
この論文では、中国、インド、ブラジル、アルゼンチン、チリ、インドネシアなど10カ国の主要企業134社を対象に、多国籍企業の進出に屈することなく新しいチャンス見出し、グローバル企業に成長した新興国企業が、自国でさまざまな障害を克服して成功するための戦略を検討している。
前述の通り、新興国では、市場を構成する仲介者や資本制度や労働制度などが未整備な制度の空隙がある。そのため新興国企業は、低コストでの資金調達や人材にアクセスすることが難しく、ブランドイメージの構築や技術開発には困難性を伴う。
新興国の市場構造は、4つの顧客セグメントから成り立っている。1つ目は、先進国市場にも共通するグローバル標準品を求める「グローバル・セグメント」であり、彼らは新興国市場に進出した多国籍企業の初期段階のターゲットとなる。2つ目は、グローバル標準品に加えて、現地特有のニーズに応じた製品を低価格で求める「グローカル・セグメント」である。
3つ目は、現地の標準品を求める「ローカル・セグメント」であり、4つ目は、C. K. プラハラードが『ネクスト・マーケット』(英治出版、2005年)で言うところのボトム・オブ・ピラミッド(BOP)のセグメントである。
新興国では、現地に進出した多国籍企業がグローバル・セグメントを担い、現地企業がローカル・セグメントを支配するという棲み分けをすることが多い。その次の段階として、両者が「グローカル・セグメント」の獲得競争を始めると、そこでは市場特有の知識を持つ現地企業が優位な地位を占めることになる。
カナは、現地企業が優位性を誇る理由は、制度の空隙に対する認識と、その利用にあるという。この論文では、それらの優位性を足がかりにして、グローバルで成功した多く新興国企業の事例を紹介している。
"Contextual Intelligence," HBR, September 2014.(邦訳「経営知識が国境を越えられない理由」DHBR2015年7月号)では、新興国市場への参入を計画している企業に対して、制度の空隙を読み解く「コンテキスト読解力(contextual intelligence)」の重要性を提言した。
母国の市場で成功した経営手法やビジネスモデルは、その市場の制度に合わせて確立したものである。経済の発展度合いだけでなく、地理的な特徴、文化や教育、言語など制度的なコンテキストの違いがあるため、そのやり方を新興国に一様に当てはめられないのは当然だ。
進出企業には、現地の市場に合わせて経営手法やビジネスモデルを「適応」させていくことが求められる。そのためには制度的なコンテキストを理解する「コンテキスト読解力」が必要である。
制度的なコンテキストを具体的に読み解くには、情報源が必要である。新興国では情報提供に対する制度の空隙もあるので、企業はみずからの資金を投じて、不足している情報源やその仕組みを構築しなければならないとカナは主張した。
カナは、"When Technology Gets Ahead of Society," HBR, July–August 2018.(邦訳「テクノロジーだけでは社会変革は起こせない」DHBR2019年2月号)を通じて、技術進歩と社会制度のギャップに焦点を当てた。
新しいテクノロジーの出現に社会の制度が追いつかない場合が多く、成熟した先進国でも法規制や取引ルールが存在しない。そこに制度の空隙が生まれる。同様のことは、知的財産権の保護や品質保証などに関する制度的なインフラや市場取引のインフラが整っていない新興国にも言える。
新興国の起業家は、制度の空隙を埋め合わせるための取り組みを自力で行い、制度を代替する必要がある。調査によると、新興国で成功した起業家は、自分たちが活動する制度的枠組みづくりを積極的に行っていた。カナは、新興国で成功するには制度の空隙を認識し、それを埋めることに努めるべきだと主張する。
GE、マイクロソフト、サムスン……
先進企業の取り組みに学ぶ
"China + India: The Power of Two," HBR, December 2007.(邦訳「中国とインド 2国間シナジーの力学」DHBR2008年7月号)では、中国とインドに進出した日米欧の多国籍企業は、なぜ両国の競争力のシナジーを引き出せていないのか、それぞれの長所を活かすためには何をすべきかを検討している。
今日、中国は製造業で、インドはITサービス産業でグローバルに優位を築いている。中国とインドは歴史的に深いつながりがあったが、現在は必ずしもその関係が維持されているとは言えないが、この論文では相互補完的に、インド企業が中国の製造技術力を活用する事例、また中国企業がインドのITサービス技術力を活用する事例を紹介する。
たとえば、GEはX線画像診断装置のソフトウェアとスキャナー・ジェネレーターをインドで開発し、ハードウエアの製造は中国で行っている。またマイクロソフトも同様に、それぞれの国に適したイノベーションを開発している。
カナはこのように、中国とインドの強みを効果的に組み合わせる戦略の必要性を主張した。なお、本稿に関連した著書として、Billions of Entrepreneurs(未訳)を上梓している。
"Where Oil-Rich Nations Are Placing Their Bets," Rawi Abdelal and Ayesha Khan, HBR, September 2008.(邦訳「オイル・マネーの新戦略」DHBR 2009年1月号)では、ペルシャ湾岸協力会議(GCC)に加盟する産油国の投資活動が欧米企業やイスラム圏諸国に与えた影響について論じている。
GCC諸国は石油で得たあり余る資金を活用して、先進国企業を買収するばかりでなく、中国、インド、アフリカ諸国に躊躇ない投資を行ってきている。その結果、貿易や国際金融の枠組みそのものが変容しつつある。
特に注目されるのは、イスラム金融市場がグローバルに誕生したことだ。イスラム金融では、「シャリーア」と呼ばれるイスラムの教義を守るために、利子(リバー)の受け取りや支払い、過剰なリスクを伴う取引(ガラル)が禁じられ、さらに投資分野も限定される。イスラム金融に準拠した金融サービスの需要が生まれ、マレーシアなどのイスラム圏諸国のほか、英国やスイスなどに多くの金融機関が誕生している。
タナは、"The Paradox of Samsung's Rise," with Jaeyong Song, and Kyungmook Lee, HBR, July–August 2011.(邦訳「サムスンに見るグローバル化への軌跡」DHBR2012年10月号)を通じて、安価な電気製品を生産するOEMメーカーのサムスン電子が、世界有数のエレクトロニクス企業であるサムスン・グループに飛躍した要因をひも解いている。
論文の原題にある「パラドックス(paradox)とは、一見矛盾しているように見えても、実際には理にかなっていることを意味する。サムスン電子は、改善プロセスを重視する年功型の日本的経営と、経営目標をイノベーションに絞り込み人材を重視する欧米型のトップダウン経営を両立している。カナは、このハイブリッド型経営を「パラドックス」として、その発展の軌跡を追った。
サムスンはグローバル企業に成長する過程で、海外から招聘した帰国韓国人や外国人MBA取得者が知識をもたらしたこと、旧来の組織文化からの脱却、地域スペシャリスト制度によるグローバル人材の育成という文化的適合などを経験している。同社の取り組みは新興国の新世代企業がばかりでなく、欧米企業からも注目を浴びた。
インドの制度の空隙を埋め
起業家育成に貢献する
カナは米国の市民権を取得したが、自分を育ててくれたインドの成長に貢献するために、インドの制度の空隙とは何か、それを埋めるために何ができるのかを考え続けてきた。
たとえば、カナは2008年、インドを拠点にマイクロファイナンスを展開する世界最大の企業バーラト・ファイナンシャル・インクルージョン(現SKSマイクロファイナンス)のディレクターに就任した。また、タタ・オポチュニティ・ファンドの諮問委員会では、金融サービス、エネルギー、自動車、ライフサイエンスの分野に於いて、積極的にアジアの新興企業に投資するよう指導している。
2015年、カナはインド政府から、インドの起業家エコシステムの構築を支援する国家委員会の議長に任命された。バンガロールのインキュベーターであるアクシロール・ベンチャーズに共同創業者として参加してもいる。
2015年から2019年の間、カナはインド政府によっていくつかの国内委員会に任命され、インドの起業家精神を育む政策を立案するプロジェクトの代表を務めた。2018年にはインドの主要大学および研究機関を強化するプロジェクトの推進役となり、インドの制度の空隙を埋める役割を担っている。
カナは、自身のこれまでの研究成果と豊富な知見を活かすことで、母国インドの経済発展を担う起業家を育成し、市場の健全な発展を促すような制度の充実を目指している。