時代の変化に応じて最新の事例や理論が求められる一方、時を超えて読みつがれる理論がある―。『DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー』(DHBR)には、そのように評価される理論を掲載した論文が無数に存在します。この連載では、著名経営者や識者がおすすめのDHBRの過去論文を紹介。第19回はリクルートマネジメントソリューションズの研究・開発部門である組織行動研究所所長の古野庸一氏が、キャリアの岐路に立った時におすすめの論文を4本紹介します。(構成/ムコハタワカコ)

『DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー』(DHBR)を読み始めて、30年以上になります。1989年、私はリクルートの経営企画担当として、会社全体の経営をサポートする立場になり、当時のDHBR(『DIAMOND ハーバード・ビジネス』)をむさぼるように読んで仕事の参考にしていました。
創業者である江副浩正元会長の退任後の経営を考える、転換期ともいえるタイミングです。リクルートがどうすれば世界に羽ばたける会社になるか、どうすれば論文に書かれていることを応用できるだろうか、などと考えながら読んだ記憶があります。
現在のDHBRは研究論文以外にも、世界最先端の経営や経営学に関わる人々の論がある種「カタログ的」に掲載されているので、現在の私自身の研究にも役立っています。しかも、いい意味で研究としては「未完成」のものも扱っているので、兆しのようなものをつかむのに大変ためになります。
DHBRの著者は視野が広く、しかもすごくわかりやすいところも魅力です。通常の論文ではとても硬い表現を使う著者が、DHBRでは柔らかい表現で記していて、それを読んで初めて「なるほど、こういうことだったのか」と研究論文の内容を理解できることもあります。
扱う分野についても、ビジネスや経済についてだけでなく、哲学や環境問題などにも踏み込んでいますし、医師や建築家、僧侶といった方も著者に名を連ねています。一つのテーマでも、いろいろな見方ができるところがよい点だと思います。
最近では2018年6月号の特集「職場の孤独」を読んで、「これは日本だけではなく、世界的な課題なんだ」としばらくうならされました。また2019年9月号の特集「時間と幸福のマネジメント」や2021年7月号の特集「バーンアウトの処方箋」なども興味深く読みました。
このようにさまざまな論文がありますが、今回は「キャリア形成」をテーマにした論文の中から、自分自身が影響を受けた、いまだに色あせない論文4本を紹介したいと思います。
キャリアチェンジに綿密な計画はいらない
最初に取り上げるのは、ロンドン・ビジネススクールのハーミニア・イバーラ教授が2002年に発表した論文「計画しても『第二のキャリア』は成功しない」です。初めて読んだ時には正直、「ああ、これはアメリカの話だな」と自分事としてとらえることができませんでした。
この論文はキャリアの転換法について取り上げたものですが、出てくるのが「バリバリの経営コンサルタントがキャリアをなげうって、戦略専門家として非営利団体を支援する仕事に就いた」といったような事例ばかり。当時の日本にそんな人はほとんどいませんでしたから、「こういう選択ができるのは、やはりアメリカだからだろう」と思っていました。
しかし、いまでは日本でもそうしたキャリアチェンジを考える人が増えてきています。昔なら「なぜ、こんなにいい会社を辞めるのか」と思われるような超大手企業を辞めてしまう方もおり、実際に若手向けのキャリアワークショップでは、そうした企業の優秀な社員の方々が悶々と悩んでおられる様子を見かけます。
最近の若い方は「なぜ売上げを上げなければならないのか」「会社は、社会において売上げや利益を上げるマシーンでいいのか」といったことに、純粋に疑念を持っています。地球のため、社会のためになることを目指して頑張る会社で、自分が共感できる仕事をしたいと考える方が増えているのです。そして、それに応えられる会社も生まれてきています。
2002年の段階では、イバーラ教授が書いていたようなキャリアチェンジは「日本では無理」だと思っていましたが、いまの日本はむしろ、この論文に近い状態になりつつあります。
この論文では、キャリアチェンジする時には「いきなりジャンプしないほうがいい」とアドバイスしています。また「綿密な計画は必要ない」とも書かれていて、まさにその通りだと思います。試行錯誤し、合う・合わないを見極めながら、自分にとってよりよい仕事を選んでいくやり方は、私自身が開いているワークショップでも推奨しています。
また、論文でも触れられているように、我々の業界では「キャリアチェンジをしようとした時に、親しい人には相談しない方がいい」と言われています。親しい人はある意味「保守的」で、あなたの古い部分ばかりを見ていて、新しいあなたの側面には気が付いていないことも多いからです。
人は相手によって変化し、対話によって新しい自分を発見するところがあります。また人は多角的なものだと私は思います。作家の平野啓一郎氏は「分人」、つまり人には対人関係ごとに見せる複数の顔があると語っています。人間は、新しい人に出会うことによっても変わっていくのです。
同様に、論文にも例があるとおり、転職エージェントもキャリアチェンジしたい人に対して、いままでのキャリアと同じような仕事を薦めてしまいがちです。キャリアチェンジしたい人は、エージェント選びにも気を配った方がいいでしょう。
やらされ感のある仕事を有意義な仕事に変える
続いては、最近大変人気の「ジョブ・クラフティング」を取り上げたイェールスクール・オブ・マネジメントのエイミー・レズネスキー教授らの論文「ジョブ・クラフティング法」を紹介します。ジョブ・クラフティングとは、仕事を自分でデザインすること。1本目の論文と共通するのは、自分がいまの仕事と合っていないと感じる時に役立つ点です。
イバーラ教授の論文は、キャリアチェンジのために会社の外へ出ることを前提に展開されていましたが、ジョブ・クラフティングは、そう簡単には外へ出られない時に、いま、目の前にある仕事を自分にとって有意義なものに変えていくための考え方です。いまだに多くの人が転職にためらいを覚える傾向にある、いまの日本にも合っている内容だと思います。
また、近年では企業人事の間でも、従業員に仕事にやりがいを持ってもらいたいという機運が高まっています。この論文は個人に向けて書かれたものですが、人事が従業員により主体的に働いてほしい時の方法の一つとしても、ジョブ・クラフティングは大変有効だと思います。
多くの仕事は、ゴールや目標が決まっている一方で、到達するまでの方法は従業員の裁量に委ねられています。マニュアルがすべて決まっていて、その通りに動かなければならない仕事は別として、そうではない仕事においては「目標を達成するためにはどうすればいいか、自分で考える」のが、ジョブ・クラフティングの基本的な考え方です。
仕事はタスクの固まりです。なるべく自分が得意なタスクや好きなタスクを中心にやるようにした方が能力を発揮できます。もちろん、若いうちは苦手なタスクにも頑張って取り組むべきかもしれませんが、ある程度の年齢になったら苦手なタスクはほかの人に任せた方が、チームとしての成果が高まります。その際、この論文にあるように、自分にとって有意義な仕事にどれだけの時間を費やせているかを知り、時間の配分を見直す方法はとても有効です。
時間配分の見直しとは、取りも直さず、仕事の本質を考えることにつながります。「目標を達成するために、自分はどう貢献すればいいか」をメタ認知することになるからです。たとえば、私の場合は、古野という人間をどう使えば組織全体の生産性が上がるかを客観的に見られるようになります。
せっかく働くのであれば、その人らしく、意味があって楽しいと思える仕事をすることが大切です。そのためにも、ジョブ・クラフティングはとても役立つ方法と言えるのではないでしょうか。
「3つのテスト」を使って倫理的なキャリアを築く
次はノースウェスタン大学ケロッグスクール・オブ・マネジメントのマリアム・クーシャキ准教授らによる「あなたにとって善きキャリアとは何か」という、道徳的な観点から仕事とは何かを考えさせてくれる論文です。
仕事を進める中で、倫理観とそれに反する行動との間で頭を抱える道徳上のジレンマを感じたことがある方も多いのではないかと思います。会社にはさまざまな誘惑があり、倫理に反した不正が起こる可能性が常に存在しています。極論すると、粉飾決算や押し込み販売のような例が挙げられますが、そこまで行かずとも売上げのために道徳に反する行動をしてしまいそうになることもあるでしょう。そんな自分の倫理観に合わない仕事や場面に出くわした時、どのように対応すれば常に倫理的でいられるのか。この論文では、そのための方法が紹介されています。
その一つとして紹介されているのが、「もしボスから倫理に反する行動を命令されたら、どう対応するかをあらかじめ決めておく」という方法です。
目標を達成するための過度な要求や長時間労働、職場からのプレッシャーは、不正受注や粉飾決算の温床になりやすいものです。さすがに賄賂のような犯罪をボスから命令されるようなケースは、そう頻繁にはないと思いますが、「もしも」の時のために予防線を張り、事前にルールを決めておくことは大切でしょう。
また、自己欺瞞的な正当化を回避するための「3つのテスト」という方法も紹介されています。これから起こす行動が、以下の3つのテストに示されている内容に一つでも抵触するなら、よく考えてから行動しよう、というものです。
1. 世間体テスト:その選択が地元紙の1面に掲載されても平気か
2. 一般化可能性テスト:あなたの判断が後続の人たちの先例となっても平気か
3. ミラーテスト:その決定を下した後に鏡に映っている人物を好きになれるか、それは本当になりたい人か
これも非常に面白い考え方です。自分がいまやろうとしていることが、自分の価値観に照らし合わせて逸脱していないかどうか、その軸を持つためにこのテストは役立ちます。論文では「人は急いでいる時には、判断を間違えやすい」ことも指摘されていますが、急いで判断を下さなければならない時にも、このテストはわかりやすくおすすめです。
また、上司や組織からのプレッシャーだけでなく、顧客からの無理難題、不正というほどではない過度の要求にどう対応するかといったケースにも、このテストは使えます。
「お客様が神様」とされるような接客を伴う仕事やクライアントワークでは、顧客の無理難題にノーと言えるかどうか、あるいは、それを言える権限を持っているかどうかが重要になります。実際にノーと言うか言わないかは問題ではなく、「いつでもノーが言える」ことが大切で、その権限があれば人は心の平安を保てることも多いと思われます。
仕事のつらさの多くは、そうした「コントロール感」がないことに起因しています。3つのテストは、コントロール感を取り戻すためにも役立つでしょう。
「中年の危機」に効く、キャリアの意味付け
最後に、マサチューセッツ工科大学言語哲学科のキーラン・セティヤ教授による「『中年の危機』には哲学が効く」という論文を紹介します。この論文では、夢見たキャリアを手に入れたセティヤ教授自身も、人生に対する後悔や喪失感、満たされない感覚に苦しめられたことを明かし、哲学がその感覚を解消するのに役立つことを説いています。
中年の危機は、セティヤ教授のような素晴らしいキャリアを持つ人も含めて、どんな人にも起こり得ます。誰もが、20代に描いていた人生とは何かが違う、あるいは昔のように体の無理が利かない、もしくは「あの選択をしなければどうなっていただろうか」などと考えるものだからです。
論文の中で「喪失感を覚えるということは、(中略)多くの分野に価値を見出す能力の避けがたい結果である」と解説しているところは、とても面白い点です。また誤りがあったとしても、その人生を味わい直す大切さを説いているところも気に入っています。自分が選んだこのキャリアは、それはそれで結構いいところがたくさんある、と前向きにとらえ直すことができるのです。
これはキャリア論を研究するさまざまな人も、同様に語っている重要な考え方です。自分のキャリアに、よい意味付けをしながらよいストーリーを描くことは大切で、これは中年期でも、老年期になっても同じこと。描くストーリーは固定したものである必要はなく、いつでも再構成することができます。改めて自分の物語を振り返ることが大切なのです。
ただ、これは同時に難しいことでもあります。わかりやすいストーリーにはならないことが多いからです。発達心理学の領域で有名なエリクソンも、65歳以上の成熟期の発達課題は、「統合VS絶望」であると述べています。良いことだけでなく、悪いことも含めて、経験してきたことをストーリーにして描くことが難しいことは皆さんも実感されるところではないでしょうか。
難しいことではありますが、向き合い続ける価値があることだとも言えます。世の中ではよく「人生に無駄な経験はない」と言われます。スティーブ・ジョブズも「コネクティング・ザ・ドッツ」、経験やキャリアの点と点をつないでいくと、実はそれが未来につながっていると語っていたように、私にも過去の経験が生きる出来事が驚くほどありました。
自分の物語は、何度も振り返り、その経験を捉え直し、再構成していくことを繰り返し時間をかけて作っていくものだと思います。小さなストーリーの積み重ねからで良いのです。そして、「しんどかったけど楽しかった。自分としてはよくやったよね」と振り返り、過去を「統合」して自分の物語がつくれることが、人生100年時代に求められることだと思います。