『Harvard Business Review』を支える豪華執筆陣の中で、特に注目すべき著者を毎月1人ずつ、首都大学東京名誉教授である森本博行氏と編集部が厳選して、ご紹介します。彼らはいかにして現在の思考にたどり着いたのか。それを体系的に学ぶ機会としてご活用ください。2018年6月の注目著者は、「近代マーケティングの父」と称され、ノースウエスタン大学ケロッグ・スクール・オブ・マネジメント特別教授を務める、フィリップ・コトラー氏です。(写真/鈴木愛子)

フィリップ・コトラーが
これまで歩んできた道のり

 フィリップ・コトラー(Philip Kotler)は、当年87歳。ノースウエスタン大学ケロッグ・スクール・オブ・マネジメントのS. C. ジョンソン・アンド・サン特別教授を務める。

 コトラーは1948年にデポール大学に入学したが、1950年にシカゴ大学に編入した。同大学の修士課程ではミルトン・フリードマンの下で経済学を専攻し、1953年に修了すると、ウエスチングハウスの奨学金を受けられるマサチューセッツ工科大学(MIT)の博士課程に進学した。MITは当時、ポール・サミュエルソン、ロバート・ソロー、フランコ・モジリアーニなど、経済学分野では世界の最高レベルの教授陣を擁していた。

 コトラーは1956年9月、25歳のとき、MITから経済学のPh. D.を授与された。その前年の1955年1月には、ラドクリフ女子大学に在学中だったナンシー・ケラム(Nancy Kellum)と結婚した。博士論文の原稿は、妻のナンシーがタイプしたという。

 その後、1957年9月、シカゴのルーズベルト大学で経済学の助教授に就任すると、同大学に1961年まで在籍した。その間、1960年には休職し、ハーバード大学で行われた高等数学のポストドクトラル・プログラム(A Special One-year Ford Foundation Program at Harvard in Higher Mathematics)に参加している。コトラーはこのとき、マーケティングという学問に出合うことになった。

 1961年9月、コトラーはノースウエスタン大学[注1]に助教授として移籍。その際、本人の意思に基づき、経済学ではなくマーケティングを選択した。同氏は、ハーバード大学のポストドクトラル・プログラムにおいて、意思決定論やゲーム論の権威であるハワード・ライファに師事していたが、ノースウエスタン大学に移籍後も学びを深めるために、シカゴ大学で実施された行動科学のポストドクラル・プログラムに参加して、意思決定論を改めて研究した。

 コトラーはその後、1965年にノースウエスタン大学の准教授となり、1969年にモンゴメリー・ワード記念マーケティング教授に昇任し、1988年にはS. C. ジョンソン・アンド・サン特別教授に就任し、現在に至る。

 同氏はこれまで、57冊の著作と150を超える論文を著している。なかでも、マーケティングのバイブルといわれる Marketing Management, 1967.(邦訳『マーケティング・マネジメント』)は現在15版を重ねて、それらを含めたこれまでの業績から「近代マーケティングの父」として広く尊敬されている。

歴史の苦難を乗り越えて、シカゴで出会った両親

 コトラーの華やかな履歴とは対照的に、その家族の歴史は苦難に満ちていた。

 ロシアでは、1880年代以降ツァーリズム末期を迎え、ユダヤ人による経済活動の制限や追放措置、ポグロムと呼ばれる過激なユダヤ人排斥運動が行われていた。さらに、ロシア革命(1905年、1917年)によって社会的な混乱と緊張状態が続いてもいた。米国では、1924年に移民法が成立して移民が制限されるようになるが、その間、米国にはロシアや東欧地域から200万人以上のユダヤ人移民が入国したと言われる。

 筆者は40年前のニューヨークで、ウクライナの村から追放されるユダヤ人家族をテーマとしたミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』を観たことがある。主人公である牛乳屋のテヴィエが、村を離れる最後の場面で「ニューヨークへ行く、おまえはどこへ」と叫ぶと、肉屋のラザールが「シカゴ」と言ったとき、観客からどっと歓声があがったのを覚えている。ニューヨークに住む自分たちのひと世代前の人たちの苦難があったからこそ、現在の自分たちがここにいる。それを感じ取ったからこその歓声だったのではないか。コトラーの父と母も、そうしたウクライナでの辛い思いを抱えながら、新天地の米国にたどり着いたのだろう。

 コトラーの父であるモーリス・コトラーは1922年[注2]、彼が17歳のとき、ウクライナのニジイン(Nezhin)から、家族とともに移民局のあったエリス島にたどり着いた。コトラーの祖父にあたるネイサン・コトラーはすでに、家族をウクライナに残して1913年に米国に渡り、シカゴで働いており、ロシア革命後の混乱期にあった家族を呼び寄せたのである。その後一家は、ロシアや東欧からの移民の多く居住する、シカゴ北西部のハンボルト・パークに居を構え、父はクリーニング店で働いた。

 コトラーの母もまた、同じくウクライナのベルディーチウ(Berdichev)から1922年、14歳のとき、家族とともに米国に入国し、父の妹が住むシカゴに移住した。そして、百貨店の販売員として働いた。

 コトラーの両親は、大恐慌間もない1930年に結婚し、1931年5月27日にコトラーが生まれた。父が26歳、母が23歳のときであった。その後、ミルトンとニールという2人の弟が誕生した。父はのちに魚屋を開いてささやかな生活を営み、1981年、76歳で生涯を終えた。父は生前、無学な両親から3人の英才が育ったことを誇りにしていたという。

コトラーの原点は労働経済学にある

 コトラーはMIT在学中、労働経済学に関心を抱き、チャールズ・マイヤーズ教授に師事して労働経済学を専攻した。労働経済学とは、労働者とそれを雇用する企業によって構成される「労働市場」を対象に分析する。コトラーは貧困に対する問題意識があったため、労働サービスに対して正当な対価の支払われているのか、生活に見合うだけの賃金が支払われているのか、貧富の格差を解消するために労働組合の役割を検証したいと考えていた。「胸の奥底には常に両親が属していた労働者階級への思いがあり、貧富の格差が解消されないことに怒りすら覚えていた」[注3]という。

 博士課程を修了する前年には、マイヤーズによるプロジェクトの一環でインドに長期滞在し、「インドの労働者に対する賃上げと生産性の向上に及ぼす効果について」研究した。博士論文の口頭試問では、ポール・サミュエルソンから、“What do you think about Karl Marx’s labor theory of Value?” と問われ、コトラーは、 “Value is produced not only by labor but also by capital, and ultimately it is a concept found in buyers’ minds of their consumer experience.”(〔価値は〕究極的には消費者の経験がもたらす購買マインドにある)と答えた。今日的には経験価値を示したことになり、自伝[注4]の中では、「いま思い出すと、マーケティングの考えに通じることを言っていたことになる」と述べている。

 なお、ハーバード・ビジネス・スクールによる『ビジネス・ヒストリー・レビュー(Business History Review)』誌に掲載された “Milestones in Marketing”[注5]では、経済学の博士号を持つ著名な5人のマーケティング研究家の業績が取り上げられている。その5人とは、製品差別化とマーケット・セグメンテーションのウエンデル・スミス(Wendell R. Smith)、マーケティング・ミックスのニール・ボーデン(Neil H. Borden)、マーケティングにコンジョイント分析を導入したポール・グリーン(Paul E. Green)、グローバリゼーションのセオドア・レビット(Theodore Levitt)、そして、マーケティング概念をビジネス以外の社会的な活動に拡大・適用させたフィリップ・コトラーである。

 コトラーの研究の意義は、シドニー・レビ-と1969年に著した“Broadening Concept of Marketing,” with Sidney Levy.[注6]や、ジェラルド・ザルツマンと1971年に著した“Social Marketing: An approach to planned Social Change” with Gerald Zaltman.[注7]に代表される通り、貧困問題などの社会的な課題解決のためにマーケティングの手法を適用させることを見出したことにあった。なお、この2つ論文は、米国マーケティング協会の1969年度および1971年度の『ジャーナル・オブ・マーケティング(Journal of Marketing)』(以下JM)誌が最優秀論文を表彰する「アルファ・カッパ・サイ財団賞」を受賞している。

 近年の著作である Up and Out of Poverty, 2009.(邦訳『ソーシャル・マーケティング』丸善、2010年)、あるいは Confronting Capitalism, 2015.(邦訳『資本主義に希望はある』ダイヤモンド社、2015年)では、第1章に「貧困問題は未解決である」、第2章に「拡大する所得格差」、第3章に「搾取される労働者」を取り上げており、博士課程時と依然と変わらぬ、コトラーの社会に対する問題意識や思いを知ることができる。

先鋭的なマーケティング・マネジメントを求めて

 コトラーはノースウエスタン大学に移ってから、“The Use of Mathematical Models in Marketing,” Journal of Marketing, 1963.、 “Marketing Mix Decisions for New Products,” Journal of Marketing Research, 1964.、“Toward and Explicit Models for Media Selection,” Journal of Advertising Research, 1964.を執筆した。『ジャーナル・オブ・マーケティング』『ジャーナル・オブ・マーケティング・リサーチ(Journal of Marketing Research)』『ジャーナル・オブ・アドバタイジング・リサーチ(Journal of Advertising Research)』という、いわばマーケティングのジャーナルの「御三家」といわれる学会誌に投稿し、自身にとって嚆矢となる論文を掲載した。

 コトラーは以来、150におよぶ多数の論文を発表しているが、その傾向を見ると、企業の経営陣や産業界一般に対する提言は『Harvard Business Review(ハーバード・ビジネス・レビュー)』(以下HBR)誌に、研究家や専門家に対する理論はJM誌というように、読者セグメントに応じて投稿している。HBR誌の論文を読むにあたっては、マーケティング理論ではなく、経営陣に対する「マーケティング・マネジメント」に限定した提言であることを認識して読む必要があるだろう。

 コトラーの経営陣に対する提言として、HBR誌に初期段階で掲載された論文は、“Phasing Out Weak Products,” HBR, March-April 1965.(邦訳「撤退のマーケティング戦略」DHBR2004年2月号)、さらに同年、“Diagnosing the Marketing the Takeover,” HBR, October-November 1965.(邦訳「顧客志向はクロス・ファンクショナルを求める」DHBR2004年2月号)、“Operations Research in Marketing,” HBR, October-November 1967.(邦訳「マーケティング・サイエンスの原点」DHBR2004年2月号)であった。

 コトラーの問題意識は、経営陣の直感による安易な経営が行われていることであり、データによる製品管理システムの構築や、マーケティング・リサーチを活用した意思決定などの定量的マーケティングの導入、顧客志向を徹底するための経営組織のあり方に関する提言が示された。

「撤退のマーケティング戦略」では、経営陣が、既存製品より新製品を追加するほうが容易だと考えた結果、マーケティング活動が大量かつ多種類の製品群に広く薄く実施され、それが危機的状況を招くと説いた。そのうえで、製品の継続指数といった、データによる撤退の管理システムの必要性を提言した。また「顧客志向はクロス・ファンクショナルを求める」では、マーケティング部門だけでなく、全社的な連携による顧客志向の経営の必要性を提言した。さらに「マーケティングの原点」では、先進的企業において、マーケティングの意思決定にマーケティングリサーチに基づく定量的モデルを導入して成功を収めた事例を紹介し、経営陣に対して、マーケティングリサーチに投資する必要性を主張している。

 コトラーは、1967年、名著としてビジネス・スクールの教科書として広く採用される、Marketing Management.(邦訳『マーケティング・マネジメント』鹿島出版会、1971年)を上梓した。執筆には2年を要し、600ページにおよぶ大書となった。そこには、みずからもマーケティングの基本原理を理解するために、先人たちの理論について、その実証研究や事例研究を丹念に学習し、その成果を載せたからに他ならない。

 さらに1971年には、念願であった Marketing Decision Making.(未訳)を出版した。その要約は、“Corporate Models: Better Marketing Plans” HBR, 1970.(未訳)としてHBR誌に掲載され、企業にとって、マーケティング戦略の意思決定の合理性を高める計量モデルの必要性と、そのモデルを構築する方法について紹介している。

マーケティング概念の
さらなる拡大をもたらす

 近代マーケティングの権威者の一人であるセオドア・レビットは、1983年、HBR誌に、”The Globalization of Market” HBR, May 1983.(邦訳「地球市場は同質化に向かう」DHBR1983年9月号)を発表した。同論文では、各国市場に個別適応していた多国籍企業の製品マーケティングに対して、規模の経済性を獲得できるグローバル標準品マーケティングを適用すべきだと説いた。そのためには、ボーダレスなグローバル市場が誕生していることが前提になるが、各国市場には依然として、保護主義的な産業政策やさまざま参入規制が存在していた。

 コトラーは、そうした規制の厳しい市場に参入し、効果的に活動するための方法として、“Megamarketing,” HBR, June-July 1986.(邦訳「メガ・マーケティング」DHBR1986 年7月号)を発表した。メガ・マーケティングとは、特定の市場に参入して活動するために製品(Product)、価格(Price)、場所(Place)、販促(Promotion)の4P、そして政治的権力(Power)と広報活動(Public Relations)を加えた6Pを戦略的に統合して、関係組織の協力を得ることであるとした。

 また、“How the Art Can Prosper through Strategic Collaborations,” HBR, January-February 1996.(邦訳「芸術とビジネスのコラボレーション」DHBR2004年2月号)では、政府の補助金の大幅削減や企業の寄付金の減少など、中小の芸術団体の維持運営が困難な状況にある中で、コトラーは、芸術団体間や企業との間で「戦略的コラボレーション」をすることで長期的な協力関係を築き、マーケティング活動を通して、資金、アイデア、サービスを顧客と交換し、参加する団体や企業、顧客に対して便益を与えることになると主張した。このように、マーケティングを企業や芸術団体の組織目標の実現に向けた活動に適用することで、その概念をさらなる拡大することに貢献した。

マーケティングの通念そのものへの挑戦

 著名な経済学者であるJ. K. ガルブレスが、現代資本主義とは何かを問うた、The Affluent Society, 1999.(邦訳『ゆたかな社会』岩波書店、2006年)では、広告宣伝などのマーケティングを、過剰ともいえる大量生産体制と相まって、依存効果によって必要以上に需要を喚起し、産業国家を発展させるための活動であるととらえた。また、PIMS(Profit Impact of Marketing Strategies:市場戦略の収益に対する影響)の研究に代表されるように、市場シェアと投資収益率とは相関があり、企業にとって高い市場シェアを獲得することは、企業経営を安定にさせるものであり、そのためのマーケティングの役割が重視された。

 コトラーは、こうしたマーケティングに対する常識を覆す論文をHBR誌に寄稿した。それが、“Demarketing, yes, Demarketing,” With Sidney Levy, HBR, October-November 1971.(邦訳「デ・マーケティング戦略」DHBR2002年8月号)と、“Strategies for High Market-Share Companies,” with Paul N. Bloom, HBR, October-November 1975.(邦訳「市場シェアのマネジメント」DHBR2004年2月号)である。

「デ・マーケティング戦略」では、従来のマーケティングの役割の常識に反して、過剰生産の弊害を説き、需給を適正なバランスにコントロールし、健全経営を実現すべきだと主張した。また「市場シェアのマネジメント」では、過剰に高い市場シェアを獲得していることは、反トラスト法の適用や社会的な批判への脅威によって、ライバル企業の攻撃に対して意思決定が慎重になった結果、危機的状況に陥る場合も少なくないとし、市場シェアの高い企業が、さらなる市場シェアの獲得をめざす場合、収益性を低下させる恐れがあると説いた。そして、企業における市場シェアの適正水準を設定し、市場シェアをマネジメントすることの必要性を提唱した。

 前出の「顧客志向はクロス・ファンクショナルを求める」でも同様の提言をしたように、マーケティングマインドを追求する経営組織にとって、全社的な連携は必要であるが、コトラーには、依然として近くて遠い組織である営業部門とマーケティング部門の関係について問題意識を持っていた。それは、経営者がマーケティング思考ではなく、セールス思考の企業経営を行っているためであり、そこからの思考の転換を求める論文を寄稿した。それが、“From Sales Obsession to Marketing,” HBR, October-November 1977.(邦訳「セールス万能から効果的マーケティングへ」DHBR1978年4月号初出、「戦略の源流を探る」収録「マーケティング思考とセールス思考」DHBR2006年11月号再掲)である。

 両部門は、現実には異なる役割だと位置づけられていたが、そこでの連携が不完全では業績の悪化は免れない。そこで、“Ending the war Between Sales and Marketing,” HBR, July-August 2006.(邦訳「営業とマーケティングの壁を壊す」DHBR2006年10月号)では、マーケティング部門の問題を取り上げている。

 マーケティングで訴求すべき内容が、従来の4Pから、セグメンテーション(Segmentation)、ターゲッティング(Targeting)、ポジショニング(Positioning)のSTPへと発展すると、マーケティング部門はより戦略的となり、営業部門を主導しようとする。ただし、それによって、予算配分の経済的対立に加えて、データ重視か取引先重視かという文化的対立が従来以上に増大する。そこでコトラーは、同論文において、両部門が良好な関係を築くためのマネジメントのあり方を提言したのである。

 顧客志向のマーケティング・マインドを追求すべきというコトラーの主張に対しては、批判の声が上がってもいた。たとえばHBR誌には、ポストモダン・マーケティングの論客であるスティーブン・ブラウンによる論文、 “Stephen Brown “Torment Your Customers (they’ll Love It).” HBR, October, 2001.(邦訳「コトラー流マーケティングへの警告」DHBR2002年7月号)が掲載された。

 ブラウンは、本来はより創造的でエキサイティングであるはずのマーケティングが、コトラーがマーケティング・ミックスの定量モデルや4P、STPなどの定石を打ち出したことで、マーケティングを創造性が欠如したサイエンスにしてしまったと批判した。コトラーはブラウンの論文に対して、創造性の欠如はマーケティング理論の問題ではなく、マーケターの問題であるとして、なぜ創造性が欠如してしまったのかを述べた反論を寄せた。

マーケティング・マインドの伝道師として生きる

『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』は、2004年、コトラーのこれまで論文を特集として取り上げている。特集にはコトラーへのインタビュー「マーケティング・マインドの追求」が掲載されており、マーケティングに対するコトラーの問題意識が1960年代から変わらないことを知ることができる。

 コトラーは、第一に、マーケティングは企業目標を実現するための地図であるにもかかわらず、企業には全社的なマーケティング・マインドが欠如していること、第二に、製品やサービスのコモディティ化が進む中でも、マーケティングが従来の思考の延長でしか考えられていないこと、第三に、ソーシャル・マーケティングについて、ビジネスを通して顧客志向と社会志向の同時実現を提唱したが、別個の活動として捉えられてしまったことを挙げた。そのうえで、マーケティング・マインドの根底にある、価値の交換と互助の原則に立ち帰る必要があると述べている。

 また、2013年のインタビュー「ビッグデータはマーケティングを変えるのか」では、ソーシャル・メディア時代を迎えて、直接的に顧客の行動(behavior)をビッグデータとして捉えられるようになったが、それだけでは不十分であるとし、重要なのは、顧客が交換価値をどのように捉えたかという態度(attitude)を知り、クリエイティブな発想で顧客に価値をコミュケーションすることが必要だと述べた。そして、価値主導のマーケティング3.0について論じている。

 デジタル経済がさらに進行する中で、価値主導のマーケティング3.0からさらに発展した、マーケティング4.0の重要性が叫ばれている。クラウドに集積されたビッグデータの分析によって顧客の態度を知り、顧客との共創が生まれる。それは顧客にとって、自己実現欲求を叶える場に参加できることを意味する。

 コトラーは、マーケティング4.0として、2つのポイントを挙げている。第一は、顧客が初期段階で共創に至る道(path)となる、AIDA(attention, interest, desire, action)の分析であり、第二は、密接に顧客同士が繋がっている環境下において、顧客が製品やサービスの価値を交換に至るプロセスを「カスタマー・ジャーニー」とし、マーケターがそこで、製品やサービスに対する認知(aware)、訴求(appeal)、調査(ask)、行動(act)、推奨(advocate)の5Aによって顧客をカスタマー・ジャーニーに導く役割を果たすことである(下図参照)。

図:コトラー・マーケティング理論の発展

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出所:筆者作成

 コトラーのマーケティング理論が、1970年代初期に日本へと「移植」されてから、もう50年近くになる。私事だが、筆者は、大学でマーケティングを勉強しないまま、広告業界で働き始めた。そこで、学習のために最初に購入した書籍がコトラーの『マーケティング・マネジメント』の初版上下巻であったことを思い出す。

 筆者は当時、コトラーが説く理論とは、マーケティング資源の投入を決定するにあたって、アウトプットを計量モデルで測定し、最適なマーケティング・ミックスを決定するシステムズ・アプローチだと理解していた。だが今回、コトラーの著作により広く触れたことで、コトラーには、マーケティング技法にとどまらず、至高ともいえる想いが秘められていたことを知った。

 コトラーの社会的な問題意識とそれに対する考え方は、労働経済学に関心を抱いた博士課程時代から今日に至るまで、まったく色あせていない。その深い問題意識こそが、「近代マーケティングの父」と称され、マーケティング・マインドの伝道師でもある、コトラーの偉大な功績につながっているのではないだろうか。

[注1]コトラーが採用された当時のノースウエスタン大学(Graduate School of Business Administration)は、1969年にGraduate School of Managementへと改称し、翌年には大学院に注力するために「経営学部」を廃して、大学院に一本化した。1979年、経営大学院の名称は、ケロッグ創業者の息子のジョン・ケロッグの基金から1000万ドルの寄付を得たことによって、J. L. Kellogg Graduate School of Managementに改められた。そして2001年には、現在のKellogg School of Managementとなる。
[注2]父と母の移住の経緯や時期は、弟のミルトン・コトラー(Milton Kotler)による。以下を参照されたい。www.historicchevychasedc.org/milton-kotler-full-interview
[注3]フィリップ・コトラー『マーケティングとともに』(日本経済新聞出版社、2014年)
[注4]Philip Kotler, My Adventure in Marketing, IDEA BITE PPRESS, 2017.
[注5]John A. Quelch and Katherine E. Jocz, “Milestone in Marketing,” Business History Review, 82, 2008.
[注6]Journal of Marketing, 33(1):10-15, 1969.
[注7]Journal of Marketing, 49(6):74-80, 1971.