マネジメントという職能への無理解

 工業化以前の経済では、成人人口の多くが何らかの経営判断を下していたが、その影響度は、家族経営の農場なり、職人の作業場なり、その範囲は限られていた。一方、今日の工業社会にあっては、大多数の人はどこか別のところで下された決定を実行する。したがって、総じてマネジメントを体験することはない。地域社会以外、すなわち工場やビジネスの現場において、リーダーとして有意の行為を経験する場は確実に狭まっているといえる。

 くわえて、産業社会の到来によって、地域社会における生活もますます工場を中心としたものに変わりつつある。大工場で働く一般労働者、とりわけ大都市で暮らしている労働者の場合、リーダーシップを発揮したり、意思決定を下したり、権限や責任は何を意味するのかを学んだりする場は、ただ一つ、労働組合に限られる。そして労働組合におけるマネジメント体験とは、もっぱら経営陣や企業と対峙することだ。

 結果として、経営者が下した意思決定を実行し、それによって生活が左右される人々にとっては、マネジメントという職能自体きわめてあいまいで、かつ理解不能のものになっている。

 マネジメント体験の機会を提供する

 したがって必要なのは、企業内でマネジメント体験を得る機会をシステマチックに創出することである。その必要性は十分認識されており、ミドル・マネジャーや現場責任者のレベルでは、さまざまな分権化プログラム、たとえば、いろいろな職種の人たちをマネジメントさせる、あるいは「ジュニア・ボード」といった若手従業員に会社について考えさせるといった取り組みがなされている。

 ただしその対象者というと、明らかにマネジメントという役割を将来担うであろう人々に限られている。肉体労働であれ、事務職であれ、専門職であれ、それ以外の一般社員にまで拡大されることはまずない。

 これら機会が与えられていないグループ──彼ら彼女らこそ、政治的にも社会的にも、アメリカの将来を左右する存在なのだが──に、マネジメント体験を与える唯一の方法は、工場内の各職能にまつわるマネジメントを任せることである。ただしそれは、少なくとも財務業績に関わる職能ではなく、コミュニティに関わる職能についてである。