経営科学はこのままではいけない

 今日、経営科学の仕事のほとんどが、品質管理や在庫管理、倉庫の立地、物流管理、機器設置、保守管理、注文処理など、すでに開発済みの職能別の手法を精緻化することに終始している。これらのいずれもが、IE(インダストリアル・エンジニアリング)、原価会計、工程分析の延長線上のものであり、製造、マーケティング、財務の部分的な改善に関するものだ。事実、企業組織のマネジメント、たとえば、リスクや意思決定に関する研究にしろ、体系にしろ、そのようなものは存在しない。私の目には、マサチューセッツ工科大学による産業動向プログラム[注1]と、ゼネラル・エレクトリック(GE)によるオペレーションズ・リサーチ(OR)研究の2つしか入らなかった。

 残念ながら、今日の経営科学は、原理ではなく手法に、意思決定ではなく手順に、その効果よりもツールとして、全体のパフォーマンスではなく部分の効率に目を奪われている。しかし、もし経営科学に通底する洞察があるとすれば、それは、まさしく企業というものは、共通目的のためにすすんで知識と技能と献身を投ずる人々からなる、一つの高次元のシステムであるという認識である[注2]

 ミサイルの管制システムのように機械的なものであれ、樹木といった生命システムであれ、企業のような社会システムであれ、あらゆるシステムに共通するものこそ「相互依存性」なのである。とはいえ、システムの特定の機能やある部分が改善されたり、効率化されたりしても、必ずしもシステム全体がよくなるわけではない。実際、部分の改善によって、そのシステムそのものに欠陥が生じたり、あるいは破壊されたりする場合すらある。逆に、全体を強化するための最善手が、ある特定の部分の機能低下を招く場合がある。

 システムにおいて重要なのは、全体の動きである。それは、システム全体の成長、バランス、調整、統合の結果であって、部分の効率をテクニカルに向上させた結果ではないのである。

 経営科学においても部分効率への傾斜は有害である。全体の健全性と働きを犠牲にしてまでも、手法の緻密さを追求させかねない。企業は社会的な存在であり、あらゆる部分が変化しうる存在であるだけに、この危険はきわめて大きい。部分の変化は不適合を拡散させ、全体の機能不全を招く。

 危険は理論上だけではない。実例は枚挙に暇がない。在庫管理によって運転資金を削減する一方、マーケティング上のリスクを増大させる。一つの工程を効率化する一方において、工場全体の効率を低下させる。あるいは市場予測において、競争相手は行動しないものと仮定する等々である。

 技術的には一流の仕事がなされている。しかしそこに大きな危険がある。試行錯誤や微調整を当然とする従来手法よりも強力であるだけに、誤用と不注意の弊害は大きい。したがって、経営科学が単なる道具箱に堕落することは、これを活用するチャンスを逸することだけではない。すなわち、害悪をもたらすものに姿を変えることはないだろうが、経営科学の潜在能力は損なわれることとなろう。