知識社会への移行

 西洋の歴史では、何百年かに一度、際立った転換が行われる。社会は数十年をかけて、次の時代のために身繕いをする。世界観を変え、価値観を変え、社会と政治の構造を変え、技芸を変え、機関を変える。そして50年後には、新しい世界が生まれる。その新しい世界に生まれた世代にとっては、祖父母が生き、父母が生まれた世界は想像さえできないものとなる。

 我々の時代は、まさにそのような転換のさなかにある。しかし今度の転換は、西洋の社会や歴史に限定されない。もはや存在するものは、世界の歴史と世界の文明だけである。今日の転換は、日本が西洋以外の初の経済大国として登場したことを契機としたのか、それとも、コンピュータが登場し、情報が中心的な存在となったことを契機としたのかは定かでない。

 しかしその兆しは、第2次大戦後、復員兵に大学進学の資金を提供したアメリカの復員兵援護法に対する反応に見られる。おそらくこの法律は、そのわずか30年前、つまり第1次大戦後であったなら、まったく意味をなさなかったであろう。したがって、この復員兵援護法と、これに対する復員兵たちの熱い反応は、まさに知識社会への移行を合図するものといえる。

 新しい社会では、個人にとっても、経済全体にとっても、知識が中心的な資源となる。経済学の言う生産要素、土地、労働、資本が不要になるわけではないが、それらは二義的な要素となる。知識さえあれば、それらは簡単に手に入れることができるのだ。

 とはいえ、個々の知識は単独では不毛である。仕事と結びつけられて、初めて生産的となる。知識社会が組織社会となるのは、このためである。会社であれ、他のいかなる組織であれ、その目的と機能は、知識を共同の課題に向けて統合することにある。

 もし歴史を参考とするならば、今日のこの転換期は、2010年、ないしは2020年まで続く。したがって、現在姿を現しつつある次の社会について、その詳細を予想することは危険である。しかし、今後いかなる問題が登場するか、いかなる領域にいかなる課題が存在するかについては、すでにかなりの程度を明らかにできる。

 たとえば、組織社会が直面することになるのは、安定を求めるコミュニティのニーズと、変化を求める組織のニーズとの緊張である。あるいは、個人と組織との緊張であり、両者間の責任の関係である。自立性を求める組織のニーズと、共同の利益を求める社会のニーズとの緊張である。組織に対する社会的責任の要求の高まりである。さらには、専門知識を持つスペシャリストと、チームとしての成果を求める組織との間の緊張である。