リーダーはいつも「いい人」ではない

 最近の学者はだいたいにおいて、完全無欠なリーダーに焦点を当てているが、必ずしもそれが現実を反映しているわけではない。長い歴史のなかで、偉大な政治思想家のほぼすべてが、悪のリーダーの存在を現実のものとして認め、多くの場合、彼らの悪癖をコントロールする必要性を説いている。

 ニコロ・マキャベリの例を考えてみよう。15世紀から16世紀にかけてフィレンツェの政界で活躍し、野蛮な戦争を数多く目撃した人物である。古典ともなっている『君主論』で展開される政治家への助言で有名であるが、そのなかで、マキャベリは力強いリーダーシップに関連した数多くの好機を列挙している。

 我々の多くにとって、威圧的なリーダーシップはそれだけで悪である。しかし、世界観と人間心理に精通していたマキャベリは、真に悪いリーダーシップとは弱いリーダーシップだけであると論じた。

 彼の哲学は、公共の秩序と個人の権力を維持するためには、リーダーのなかにも軍事力を行使しなければならない者が必要であるという前提に立っていた。それゆえマキャベリは、鉄の意志をもって権力と権威を振るうことにためらいのないリーダーを称賛した。『君主論』のなかでは、時に賢明に「残忍」であることの必要性を淡々と述べている。

 アメリカ合衆国の建国の父たちも、悪いリーダーシップという経験を個人的に持ち、それについて思いをめぐらしてきた。実際、長い歴史のなかでもリーダーシップについて最も深く考えた人たちである。

 悪いリーダーシップに関する彼らの見解も、マキャベリのそれから大きくかけ離れたものではなかった。リーダーは腐敗しやすく、悪意に侵されやすいと考えたのである。それゆえ、配下の人間の同意なくしては、リーダーがほとんど何もできないような構造をつくろうと腐心した。

 現代のリーダーシップの専門家は、リーダーが実効的に振る舞うためにどうすべきかに着目する。しかし建国の父たちは、協力者との連合が形成できなければリーダーが行動できないようにするために、リーダーを制御する方法を考案した。

『ザ・フェデラリスト』のなかの一論文で、アレクサンダー・ハミルトンは、提案にある大統領制と、アメリカの聴衆に苦難を与え、忌み嫌われ、遠い存在であった君主政治との違いを次のように論じている。